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    ロジャーズ「必要充分」論文(5)

    引き続き、カール・ロジャーズの1957年の有名な論文、「セラピーにおけるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」("The Necessary and Sufficient Conditions of Therapeutic Personality Change", Journal of Consulting Psychology, Vol. 21, No. 2, 95-103)を細かく読んでいく。

    昨日は六条件のうちの第二条件にかんする解説部分、「クライエントの状態」を読んだ。


    今日は、第三条件の解説にあたる、「関係におけるセラピストの純粋さ」を読む。

    昨日の第二条件にひきつづいて「一致」とか「不一致」とかのことばでロジャーズがなにをいわんとしているのか、という部分になるのだけれど、第二条件が(かなり問題含みの)クライエントの不一致を扱っていたのに対し、第三条件ではセラピストの一致を扱う。

    こちらにかんしては、ロジャーズはあまり難しいことは言っていない。

    たんにセラピストは自分をいつわらず(クライエントを欺いてはならない)、無意識的な情動を明確に意識するべきだ、という(その時点ですでに無意識ではないのではないかと思うが)。

    伊東訳でほとんど問題がないので、伊東訳との異同については触れないことにする。


    一段落ずつ見ていこう。


    関係におけるセラピストの純粋さ(genuineness)

    The Therapist's Genuineness in the Relationship


    The third condition is that the therapist should be, within the confines of this relationship, a congruent, genuine, integrated person. It means that within the relationship he is freely and deeply himself, with his actual experience accurately represented by his awareness of himself. It is the opposite of presenting a facade, either knowingly or unknowingly.

    先走っておくと、ロジャーズは第一条件のみ「二値的」であって、第二条件から第六条件については程度問題としている。

    第一条件は「関係というものがあるのかないのか、それだけが問題」なのに対し、第二条件から第六条件までは「どの程度成し遂げられているのかという問題」になる。


    この第一段落について重要なのは「この関係の範囲のなかで」という限定の部分。

    つまりクライアントと比較して、不一致よりも一致の度合いが高い、ということになるのだが、これもまた、測定可能なのか、という問題にぶちあたるだろう。

    つまり、比較可能なのか、という問題。

    この問題は、やはりロジャーズの誤謬であるように思う。

    クライアントは特定の(個別の)問題をセラピールームに持ち込む。

    その特定の分野においては、クライエントは不一致を自覚しているだろう。

    セラピストは、このクライアントに劣らぬ不一致を抱えているかもしれない。

    このセラピストが自覚しておらず、いかなる観察者、いかなる分析家によっても観測され得ないような、致命的な不一致を。

    このとき、「どちらが」一致の度合いが高いのか、ということは問題にならないだろう。

    暫定的に結論をいえば、「この(セラピーという)関係において」「クライアントが要求されている不一致(incongruence)」と「セラピストが要求されている一致(congruence)」は「カテゴリーが異なる」。

    同じ「一致(congruence)」という文字がそこに刻印されているとしても。

    つまり、セラピー関係においては、クライアントは「不一致役」、セラピストは「一致役」という役割を演じさえすればよい、ということになる。

    この「暫定的結論」は、今日見ていくロジャーズの主張に照らせば、棄却される命題なのだが、ロジャーズの論旨を追っていくなら、この命題にたどり着かざるをえない。

    たとえばこの段落の最後の文、"It is the opposite of presenting a facade"が伊東訳では「仮面をかぶることの正反対である」と訳されているのだが、そのまま意味をとれば「役割を演じてはならない」ということになってしまう。

    これは社会学的には問題にならない(人はつねになんらかの役割を演じている)。

    ゴフマンのドラマツルギー論を使うのであれば、まずクライアントもセラピストも、その関係において社会人の役割を演じているはずだ(父と子を演じているのではないだろう)。

    役割をはずした「その人そのもの」などというものはどこにもない、錯視されることはあっても、ということになる。



    私訳:

    関係におけるセラピストの純粋さ(genuineness)


    第三の条件は、この関係の範囲のなかで、セラピストは一致して(congruent)、純粋で(genuine)、統合された(integrated)人物であるべきだ、というものだ。その関係のなかで、セラピストは自由に深く自己自身であることを、それは意味しており、そのとき顕在的体験(actual experience)は自己の気づきによって、正確に表象されているのである。それは、意図的であれ無意識的であれ、表面を呈示することとは反対のことだ。


    次の段落:

    It is not necessary (nor is it possible) that the therapist be a paragon who exhibits this degree of integration, of wholeness, in every aspect of his life. It is sufficient that he is accurately himself in this hour of this relationship, that in this basic sense he is what he actually is, in this moment of time.

    上述したように、セラピストに要求されるのは、あくまでも「その」セラピー関係における一致であって、その限定をはずれたところで一致している必要はない、という主旨。

    ただ、"he is what he actually is"などということがいかにして可能なのか、仮に可能であったとして、それをいかにして知りうるのか、という問題があるように思うのだが、ロジャーズはこの時点ではこうした問題に頓着していないように見える。


    私訳:

    セラピストが、自分の生活のすべての側面において、ここまでの統合性や全体性を示す模範である必要はない(またそれは不可能でもある)。この関係のなかのこの時間において正確に自己自身であれば十分なのであり、この基本的な意味において、この瞬間において、まさにそうであるところの自分であれば十分なのである。


    次の段落:

    It should be clear that this includes being himself even in ways which are not regarded as ideal for psychotherapy. His experience may be "I am afraid of this client" or "My attention is so focused on my own problems that I can scarcely listen to him." If the therapist is not denying these feelings to awareness, but is able freely to be them (as well as being his other feelings), then the condition we have stated is met.

    この段落では、情動という面に焦点化している。

    精神分析的な否認がセラピストに生じていないのであれば、その情動に対して、そのセラピストは「自由」である、とロジャーズはいう。

    平木典子先生のいいかたにならえば、セラピストは不一致の部分も自己受容していることが必要だ、とでもなるだろう(昨日さんざん「一致と不一致にまつわる誤解」ということを述べたが、その誤解をひろめた代表格ともいえるのが平木先生でもあるのだが)。


    私訳:

    これは、心理療法にとって理想的だとはみなされていないような様式で自己自身である、ということさえも含んでいるのだ、ということを明確にしておくべきだろう。彼の体験は「私はこのクライエントを恐れている」とか「私の注意はあまりに強く自分自身の問題に焦点化しているので、彼の言うことをほとんど聴くことができない」とかいうものかもしれない。そのセラピストが、こうした感情が意識にのぼることを否認しないとしたら、(彼が彼のその他の感情であるのと同様)自由にその感情であることができているのだ。そのとき、我々が述べてきたような条件は、満たされることになる。


    次の段落:

    It would take us too far afield to consider the puzzling matter as to the degree to which the therapist overtly communicates this reality in himself to the client. Certainly the aim is not for the therapist to express or talk out his own feelings, but primarily that he should not be deceiving the client as to himself. At times he may need to talk out some of his own feelings (either to the client, or to a colleague or supervisor) if they are standing in the way of the two following conditions.

    この段落でも情動に触れていて、そこまでこだわるからにはやはり情動の面で一致が必要だと言いたいのかな、と勘ぐらされるのは確かだ。

    しかし情動に限らず「クライアントを欺かない」ということは直観的にも必要であるように思える。

    そこでマジックワード「これは私の個人的な意見なのですが……」が炸裂することになる(傾聴技法においては。傾聴技法ではカウンセラーの判断は禁欲されることになっている)。


    私訳:

    セラピストが自己におけるこうした現実をあからさまにクライエントに伝えるその程度という、難解な問題を考慮していたら、あまりに脇道にそれすぎになるだろう。目的は、セラピストが自分自身の感情を表現したり、それについて討論したりするといったことではもちろんなくて、主要には、自己にかんしてクライエントを欺かないべきだ、ということなのである。もしそうした感情が、続くふたつの条件〔無条件の肯定的配慮と共感的理解〕の邪魔になっているのだとしたら、おりにふれて、セラピストは自分自身の感情のうちのいくつかについて議論する必要があるかもしれない(クライエントと、あるいは同僚やスーバーヴァイザーと)。


    次の段落:

    It is not too difficult to suggest an operational definition for this third condition. We resort again to Q technique. If the therapist sorts a series of items relevant to the relationship (using a list similar to the ones developed by Fiedler 3, 4 and Bown 1), this will give his perception of his experience in the relationship. If several judges who have observed the interview or listened to a recording of it (or observed a sound movie of it) now sort the same items to represent their perception of the relationship, this second sorting should catch those elements of the therapist's behavior and inferred attitudes of which he is unaware, as well as those of which he is aware. Thus a high correlation between the therapist's sort and the observer's sort would represent in crude form an operational definition of the therapist's congruence or integration in the relationship; and a low correlation, the opposite.

    この最終段落が、先の「暫定的結論」を裏づけてしまうことになる。

    ここでは第三の観察者が登場する。

    セラピストのQ分類と観察者のQ分類が高い相関関係を持てば、そのセラピストは一致していることになる。

    しかしこの測定方法が測定しているのは、セラピストがどれだけ一致を成し遂げているのか、ということだけであって、クライアントと比べて一致度が高いか低いかということは、測定できていない。

    ロジャーズがこれでよしとしているのであれば、たんに「セラピー関係においてセラピストは、セラピー的観点から観て高い一致度を表現していなければならない」というだけのことになる。

    おそらくそれでいいのだろう。


    私訳:

    この第三の条件の操作的定義を示すことはそれほど難しくはない。再びQ技法に頼ることにする。もしセラピストがその関係にかかわる一連の項目を分類したら(フィードラー[文献3、4]とボウン[文献1]によって開発されたものに似たようなリストを用いる)、これは彼の、その関係における体験の知覚を与えてくれる。その面談を観察したか、その録音を聞いたか(あるいはその音声つき動画を観察したか)した何人かの判定者が、その関係についての彼らの知覚を表す同じ項目を分類するなら、このふたつめの分類は、セラピストが気づいているものでも気づいていないものでも、彼の行動や察せられた態度の要素をとらえているはずだ。それゆえ、セラピストの分類と観察者の分類のあいだに高い相関関係があれば、おおまかな形で、その関係におけるセラピストの一致や不一致についての操作的定義を表していることになろう。低い相関関係は、その反対を表すことになろう。


    ダイエット

    (2月18日分)

    398日目。

    体重64.4kg(18.1kg減)。体脂肪率18.3%(9.3%減)。



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