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    ロジャーズ「必要充分」論文(4)


    引き続き、カール・ロジャーズの1957年の有名な論文、「セラピーにおけるパーソナリティ変化の必要にして十分な条件」("The Necessary and Sufficient Conditions of Therapeutic Personality Change", Journal of Consulting Psychology, Vol. 21, No. 2, 95-103)を細かく読んでいく。


    昨日は六条件のうちの第一条件にかんする解説部分、「関係」を読んだ。


    今日は、第二条件の解説にあたる、「クライエントの状態」を読む。

    ここは、日本でもっとも誤解されている部分だ。

    本論文が、心理療法の世界でもっとも引用されている論文であることを踏まえると、この部分にかんする誤解は、かなり致命的で危険なことだと思う。

    そうした誤解を生んだ責任の多くの部分がロジャーズにあるとしても。

    一段落ずつ見ていこう。


    The State of the Client(クライエントの状態)

     It was specified that it is necessary that the client be "in a state of incongruence, being vulnerable or anxious." What is the meaning of these terms?

    第一段落は、伊東訳で十分理解できる。

    私訳:

     クライエントが「不一致の状態にあったり、傷つきやすかったり、不安であったりする」ことが必要である、と特定された。これらの用語はなにを意味しているのか?


    次の段落:

     Incongruence is a basic construct in the theory we have been developing. It refers to a discrepancy between the actual experience of the organism and the self picture of the individual insofar as it represents that experience. Thus a student may expelience, at a total or organismic level, a fear of the university and of examinations which are given on the third floor of a certain building, since these may demonstrate a fundamental inadequacy in him. Since such a fear of his inadequacy is decidedly at odds with his concept of himself, this experience is represented (distortedly) in his awareness as an unreasonable fear of climbing stairs in this building, or any building, and soon an unreasonable fear of crossing the open campus. Thus there is a fundamental discrepancy between the experienced meaning of the situation as it registers in his organism and the symbolic representation of that experience in awareness in such a way that it does not conflict with the picture he has of himself. In this case to admit a fear of inadequacy would contradict the picture he holds of himself; to admit incomprehensible fears does not contradict his self concept.

    ここでまず誤解が生じやすい言い回しが出てきている。

    It refers to a discrepancy between the actual expelience of the organism and the self picture of the individual insofar as it represents that experience.

    Itとはincongruence(不一致)のことで、それはdiscrepancy(食い違い)に準拠している(言及している、参照している、注意を向ける)としている。

    何と何の食い違いか。

    "the actual expelience of the organism"と"the self picture of the individual insofar as it represents that experience"の食い違いだ。

    actualが伊東訳では「現実の」と訳されている。

    これで間違いではないが、この部分への誤解がないようにロジャーズが例示しているケースの訳が、誤解を促進している。その部分についてはあとに述べる。

    ここではactualは「現実化した」「顕在的」というほどに解釈できる(その点で伊東訳は正しい)。

    大事なのは2点:

    1. organismのレベルでの体験が現実化・顕在化している
    2. insofar as it represents that experience(~の限りにおける)自己像は表象する

    一点目は、あくまでもorganismレベルだから、その体験はいまだ意味づけされていない。

    二点目は、そうした体験に意味づけし、表象する限りでの自己像、ということ。

    これをたんに「現実の自分」と「理想化した自分」との不一致と理解してはならない(これがありがちが誤解)。

    「有機体レベルでの現実化した体験」はいまだ意味づけされておらず、「現実の自分」という表象レベルの話ではない。

    ここに誤解の種があるように思う。

    ただ、ロジャーズの例示を読めば、こうしたロジャーズの書き方が、あまり適切ではないということはよくわかる(不一致は食い違いにrefer toするだけなので、そのものではない)。

    つぎに第一の事例があげられているが(学校恐怖の学生の例)、これよりも、次の段落の母親の例のほうがわかりやすいので、駆け足でなぞる。

    この学生の「有機体レベルで生じている体験」とは「恐れ」である。

    この体験をロジャーズは「根本的欠点を証明してしまうかもしれないかもしれないという理由による」といきなり「解釈」してしまうので、誤解が生じているのだが……。

    つぎにこの学生の「体験の象徴的表現」とは「理解し難い恐れ」である。

    そして「象徴的体験」は、「歪められ」て表現されたものである。

    こうして歪められた象徴的体験は、自己像と食い違わない。

    つまり、「自分の欠点を立証するから怖い」という「恐れ」は、この学生にとっては受け入れがたいため(自己像と食い違うため)、その恐れの体験を歪め、自己像にとって受け入れやすい、「建物の3階にのぼるのが怖い」とか「キャンパスを横切るのが怖い」という「理解し難い恐れ」へと象徴化する、という図式だ。

    こうやって図式化すると、「歪める」という、現在の認知療法・認知行動療法にもつながる用語の採用が誤りであることがよくわかるだろう。

    そもそも意味のない知覚体験を、どのように意味づけして象徴化しようとも、歪めたことにはならないし、そもそも意味づけして象徴化することを「歪める」というならば、どのような意味づけ・象徴化も「歪める」ことである、すべての意味は歪んでいる、ということになるだろうから。


    私訳:

     不一致とは我々が発展させてきた理論における、基本的な構成概念である。その有機体の顕在的体験(actual experience)〔現実化している体験〕と、そうした体験を表象するさいのその個人の自己像との、食い違いに言及する概念である。例えば、ある学生は、トータルなレベルであれ有機体的レベルであれ、大学への恐れや、ある建物の三階で行われる試験への恐れだとかを体験するかもしれない。それらが彼の根本的欠点を立証してしまうかもしれないからだ。彼の欠点への恐れのようなものは、彼の自己概念とあきらかに食い違っているので、この体験は、彼の意識に(歪められて〔distortedly〕)表現される。この建物の、あるいはどんな建物であれ、階段をのぼることへの不合理な恐れとして。そしてそのうちに、キャンパスを横切ることへの不合理な恐れとして。こうして、彼の有機体において表れる、状況についての体験された意味と、彼が自己について持つ像と葛藤を起こさないようにして意識にのぼる、そうした体験の象徴的表現とのあいだに、根本的な食い違いが存在する。この事例において、欠点への恐れを認めることは、彼が自己について抱く像に相反することになるだろう。つまり、理解し難い恐れを認めることは、彼の自己概念に相反することにはならない。


    次の段落:

     Another instance would be the mother who develops vague illnesses whenever her only son makes plans to leave home. The actual desire is to hold on to her only source of satisfaction. To perceive this in awareness would be inconsistent with the picture she holds of herself as a good mother. Illness, however, is consistent with her self concept, and the experience is symbolized in this distorted fashion. Thus again there is a basic incongruence between the self as perceived (in this case as an ill mother needing attention) and the actual experience (in this case the desire to hold on to her son).

    この段落は、より図式化されていて、わかりやすい。

    伊東訳では"an ill mother needing attention"が「注目を要求している悪しき母」と訳されていて、誤解の種になっている。

    ここでは、この母親は、an ill mother needing attentionであることと自己像は矛盾をきたさない、つまり受け入れやすいのだから、「悪しき母」ではなく「病気の母」と象徴化している、と理解しなければ意味が通らない。

    "a basic incongruence"は、"the self as perceived"と"the actual experience"のあいだの不一致である。

    「知覚された自己」とは歪められて象徴化された自己のこと。

    「顕在化している体験」とは息子を引き止めておきたいという欲望。

    ロジャーズのいう不一致(incongruence)とは、第一義的にはこの差異のことである。

    前者は意識されているが、後者は意識されていない。

    したがって、「理想の自己」と「現実の自己」という、どちらも意識可能なものの差異のことではない。

    ただし、ロジャーズの書き方が、誤解を招くような不適切な書き方であることは確かだ。

    意識化されず、意味づけ・象徴化される前の有機体のレベルでの体験を、「欲望」とよぶところまでは、まだよいとして(いまなら「力動」とよばれるだろうが)、「満足の唯一の源泉をつかんで離さないという欲望」と「解釈」してから書いてしまうのは、あきらかに誤謬だ。

    おそらくこのケースは、心理療法(それもかなり精神分析的な)によって、不一致を解消したクライエントの例を使用しているのだろう。

    そのケースでは、臨床家とクライエントは、その欲望をそのように解釈したのかもしれない。

    しかしそれは事後的な象徴化であって、「本当の欲望」のようなものではない。


    私訳:

     もうひとつの例は、一人息子が家を出る計画をたてるたびに、はっきりしない病気を患う母親であろう。顕在的な〔ここで現れている〕欲望は、彼女の満足の唯一の源泉をつかんで離さないということである。このことに〔欲望に〕、意識において気づくことは、よき母親として彼女が自己について抱いている像と矛盾するだろう。しかしながら、病気は、彼女の自己概念と矛盾をきたさず、そしてこうした歪められたやり方(distorted fashion)で、体験は象徴化されるのである。ここでもまた、知覚された自己(この例では注意を必要とする病気の母親としてのそれ)と、顕在的体験(この例では息子を引き止めておきたいという欲望)とのあいだに、基本的な不一致が存在しているのだ。


    次の段落:

     When the individual has no awareness of such incongruence in himself, then he is merely vulnerable to the possibility of anxiety and disorganization. Some experience might occur so suddenly or so obviously that the incongruence could not be denied. Therefore, the person is vulnerable to such a possibility.


    ここは伊東訳で理解可能だ。

    ただ、ここまでロジャーズは精神分析的な語法で説明しているのだから、denyは「否認」と訳すべきではないかと思った。


    私訳:

     その個人がそうした自己の中の不一致に気づいてないときに、その人は不安と無秩序の可能性に対して、ただ傷つきやすくなるだけなのである。あまりに突然に、あるいはとても明白に生じるため、その不一致を否認できないという体験もあるかもしれない。それゆえ、その人物はそうした可能性に対して傷つきやすいのである。


    次の段落:

     If the individual dimly perceives such an incongruence in himself, then a tension state occurs which is known as anxiety. The incongruence need not be sharply perceived. It is enough that it is subceived -- that is, discriminated as threatening to the self without any awareness of the content of that threat. Such anxiety is often seen in therapy as the individual approaches awareness of some element of his experience which is in sharp contradiction to his self concept.

    that is(すなわち)以下のwithoutを伊東訳では「わからない場合には」としているが、ここは、enoughとはすなわち、としているので、「~なしでもかまわない」というほどの意味。


    私訳:

     その個人が、そうした自己における不一致をほのかに知覚するとき、不安として知られている緊張状態が生じる。不一致は、鋭く知覚される必要はない。潜在的に知覚されれば(subceived)それで充分である――すなわち、その脅威の内容についての意識などなくとも、自己に対する脅威として識別されていればよいのだ。そうした不安はしばしばセラピーにおいてみられ、それはその個人が、自己概念に鋭く矛盾する、自分の体験のある要素に気づくよう、アプローチしているときである。


    次の段落:

     It is not easy to give precise operational definition to this second of the six conditions, yet to some degree this has been achieved. Several research workers have defined the self concept by means of a Q sort by the individual of a list of self-referent items. This gives us an operational picture of the self. The total experiencing of the individual is more difficult to capture. Chodorkoff(2) has defined it as a Q sort made by a clinician who sorts the same self-referent items independently, basing his sorting on the picture he has obtained of the individual from projective tests. His sort thus includes unconscious as well as conscious elements of the individual's experience, thus representing (in an admittedly imperfect way) the totality of the client's expelience. The correlation between these two sortings gives a crude operational measure of incongruence between self and experience, low or negative correlation representing of course a high degree of incongruence.

    伊東訳について、2点。

    "a clinician who sorts the same self-referent items independently"のindependentlyは、「影響を受けないよう統制された独立変数」というときに使うindependentだろう。

    もちろんクライエントのQ分類に影響を受けないように統制されている、というほどの意味。


    "basing his sorting on the picture he has obtained of the individual from projective tests"を伊東訳では

    「いくつかの投影テストから得られたその個人の自己像を分類し、それにもとづいて」

    と訳されている。

    間違いではないが、翻訳独特の長い修飾によってわかりにくい。

    「投影法検査からその個人について得た像について、彼が分類したものを基準とすることによって」

    というほどの意味。


    私訳:

     六つの条件の、この第二のものに明確な操作的定義を与えることは容易なことではないが、ある程度は成し遂げられてきた。何人かの研究者たちは、自己言及項目(self-referent items)について個人がQ分類(Q sort)をするという方法で、自己概念というものを定義してきた。これによって、われわれは操作的な自己像を得る。その個人のトータルな体験というものは、とらえるのがより難しい。チョドーコフ[文献2]はそれを、同じ自己言及項目を、〔クライエントとは〕独立に分類する臨床家によってなされたQ分類として定義した。投影法検査(projective tests)からその個人について得た像について、彼〔臨床家〕が分類したものを基準とすることによってである。彼の分類はそのため、その個人の体験の意識的要素のみならず無意識的なものも含んでおり、それゆえ、(不完全であることは認めざるをえない方法でだが)クライエントの体験の全体性を表象しているのである。これらのふたつの分類〔クライエントの分類と臨床家による分類〕間の相関関係は、自己と体験のあいだの不一致について、おおざっぱな操作的測定基準を与えているのであり、低いあるいは負の相関は、もちろん高い程度の不一致を表象しているのである。




    ダイエット

    (2月17日分)

    397日目。

    体重63.3kg(19.2kg減)。体脂肪率17.6%(10.0%減)。



    ぼくのダイエット法はコチラ(ようはケトジェニックダイエットを認知行動療法でサポートしたものです)



    ダイエット指南のメルマガ発行してますダイエットの教科書@まぐまぐ



    認知行動療法ダイエットプログラム主催しています(ぼくも実践しているケトジェニックダイエットの指導もしています)


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