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    『嫌われる勇気』普通じゃなくてもよくね?




    現時点で、一番売れている自己啓発本。

    日本のアドラー派で有名な岸見一郎氏の新刊か? と思いきや、岸見原案の共著。

    共著者がプラトンの対話篇に倣って(「岸見氏のプラトンになります」と言っている)、哲人と青年の対話篇としてリライトしている。


    タイトルも魅力的だし、承認欲求を完全否定して自己受容せよ、という単純明快なメッセージもシンプルで、刺さる人には刺さるだろうと思った。

    対話篇という形式はどうか。

    これも刺さる人には刺さるだろう、受け付けない人には受け付けない。


    自己受容や他者貢献の方法論があまり明確ではなく、カウンセラーやメンターやコーチの援助を借りて実行するには、けっきょく(アドラー派のカウンセラーなんてそんなにいないので)他の新しい方法論(認知行動療法とかマインドフルネスとか)に、部分的に頼らなければならない点は弱点だと思う。


    「どうしても他者承認を求めてしまう」とか「今現在は未来のために我慢していて、私の"いまここ"は輝いていない」などの悩みを持つ人で、自己啓発本を探している方は、読んでみてはどうか。




    と、無難なことを言った後で、ぼくの本当の感想。

    この本に対して言いたいことは、山ほどあって、それを整理するだけでも大変なことになりそうなので、要点だけ述べたい。

    基本的に批判的なことを言います。

    が、「あの人に、この本を読んでほしいなあ」と思い浮かぶ顔がひとつやふたつではないので、まったくダメな本だとも思っていません。

    少なくとも議論するに値する、とは思っています。

    「ポイントは3つに絞る」のが鉄則らしいので(『ビリギャル』303頁)、3つだけ言います。


    1.フロイトの扱いが不当だ

    アドラー派にかぎらず、たいてい「新しい」ことを標榜する心理療法などは(アドラーは新しくないけど)、「精神分析は」「フロイトは」「トラウマ原因論は」などという主語を使って、「仮想敵」をでっち上げるのものだけど、この本でも同じような論述テクニックが使われている(テクニックというか詐術だけど)。

    とうぜんながら、この本で「原因論」として棄却されている「フロイト的原因論」は、フロイト派の精神分析とはなんの関係もない。

    フロイト派は明確にトラウマ説を否定しており、そのせいで「出生外傷」をとなえたオットー・ランクのような有能な精神分析家はフロイト派を破門されている。

    フロイト自身は、ランクの説を、「けっこう、いいんじゃね?」って思ってたんだけど、周囲の反論が激しかったから、しぶしぶ破門せざるをえなかったらしいけれど。

    ちなみにぼくは、フロイト、ラカンに次いで、オットー・ランクは重要な精神分析家だと思っている。


    フロイトのいう「トラウマ」というのは事後性、つまり「シニフィアンの遡及効果」(ラカン)であって、「いわゆる原因」(つまり物理時間的に先行するモノ)ではない(フロイトの病因論は原因論ではない)。

    もちろん細かいことを言えば、ラカンがたんに「シニフィアン」と呼んだところのものをフロイトは「語表象」「物表象」と区別して論じていて、フロイト-ラカンの切断線は意外に大きいのだが、フロイトの心的外傷概念を理解するにはラカンのラインから考えなければまるで意味をなさない。

    その意味で「アドラー以外の心理学はよく知らない」という岸見氏のフロイト理解は不当である。

    さらに細かいことを言えば、ラカンは「対象a」を「欲望の原因」とよんでいて、明確に「原因論」に立脚している(といっても倒錯した「原因論」であって、科学的因果性の公準からみれば「そんな原因の使い方があるか!」と憤慨されそうなものだけど)。


    アドラー的「目的論」というのは今ではとくに目新しい部分がなく、一時期「疾病利得(しっぺいりとく)」という概念が流行したが、これも近年ではモラハラをひき起こしかねない概念として自粛ムードになっている。

    で、岸見氏は「アドラー的目的論/フロイト的原因論」という二項対立に完全に立脚して議論を進めるのだけど、これは「原因」と「理由」を混同したカテゴリーミステイクでしかなく、この人本当に哲学者なのかなと疑わせる。

    フロイトの「事後性にもとづくトラウマ」を「原因」という特殊ワードで表現しても、べつにかまわないのだが(なぜなら事後性とは遠近法的錯視が現実のものとして作動し続けているという状況であり、じっさいに我々の目には「原因」であるかのように見えるのだから)、そのとき、「Xが原因でYという結果が生じている」という因果性にもとづく記述は、たんに「帰属過程」(フリッツ・ハイダー)を記述しているにすぎない。

    また、アドラーの目的論も、「Xを目的としてYという結果をSが引き起こしている」という目的論にもとづく記述も、たんに帰属過程にすぎない。

    岸見先生は社会心理学の勉強もしたほうがよいのではないか。


    なお、ぼくが立脚するブリーフセラピーやシステムズアプローチではどのように記述するかというと、「不登校の子は不登校するので不登校である(なにかきっかけはあったとしても)」「リストカットする子はリストカットするのでリストカットしている(なにかきっかけはあったとしても)」のようにまずは記述する(ぼくはこういうのはラカン的だと思うんだけど、ブリーフセラピーの先生方も、「精神分析的プロブレムトークと違って短期療法では」みたいなことを平気で書いたりするからな―)。

    しかるに、もしこのIP(問題行動をしているとみなされている人)が「ママとパパが昔みたいにもっと仲良くなってくれればいいのに」と主張したとしたら、この問題とされている行動の原因を「両親の不仲」に「帰属」する。

    ここで大事なのは、IPなりクライアントなりの述べる「原因(理由)」が正しいとか間違っているとかいう判断はしないということ。

    むしろIPなりクライアントなりが「そう主張する」のであれば、その帰属の認知を強化する。

    強化すればするほど、その「原因(理由)」が解消されたときに、問題も解消する「力」が大きく働く。



    2.幸福方法論のプログラムセットとしては脆弱

    アドラー心理学(個人心理学)のよいところは、「もしもこのように生きればあなたは不幸になる」「もしもこのように生きればあなたは幸福になる」というようにきわめて簡潔にプログラム化されているところだと思う。

    だから、「私は不幸だと感じている」という人が「幸福になりたい」と思うのであれば、アドラーの「教え」にしたがって生きれば、すべての問題が解決してしまう。

    こんなイージーなことはない。

    これは素晴らしいことだ。

    近年では心理療法も短期化が要請されており(アメリカの精神医学に伝統的な、精神分析や傾聴によるカウンセリングでは悠長すぎて医療費が逼迫するというわけだけれど、日本ではそもそも心理療法に医療費がかかるということがほとんどない。とうぜんその分、クライアントの支払う保険適用外の費用はかさむので、よけいに短期化が志向されるわけだけど)、アドラー・プログラムのようなイージーな方法をなぜすべての心理療法家は取り入れないのだ! ってことになってもおかしくはない。


    ただし、「そううまくいけばね」ってことだけど。

    まず、「いま不幸なので、幸福になりたい」というのであれば、もっと洗練(?)された方法がつぎつぎと生み出されている。

    それらを総称して「自己啓発」とよぶことにする。

    その意味で、アドラーを「自己啓発の源流」とよぶのは間違っていないと思う。

    怪しげでスピリチュアルなヒーリングから、心理学的知見をエンジニアリングに応用したものまでさまざまだが、そうした「雑多な技術群」をレジュメ化してフォルダーに投げ込んだものの代表がNLP(神経言語プログラミング)だろうと思う。

    レジュメ化、っていうのは、「体系化されていない」という意味だけど。

    で、そういう「雑多な感じ」の元祖が岸見アドラーなんだと思う(後から出てきた岸見氏が「元祖」ってのもおかしなはなしだけど、岸見氏が「これがアドラーの考えなんだ」と断言するからには、やはり元祖たるアドラーの責任をも負っていただきたい)。


    そうすると、「より洗練された」NLPとかのほうが手っ取り早くてよくね? ってことになる。

    「洗練された」ってのは「切れ味するどい」ぐらいの意味で、理論的に体系性を持っているという意味ではない。

    一言でNLPといっても、その中身は、前述したように、雑多なので、切れるものもあれば切れないものもあるんだけど、数撃ちゃ当たるし、誰にどれが当たるのかわからないのでNLPの手法をあれこれ試してみるといいと思う。

    ただし「切れ味するどい」ものも含まれているので、諸刃の剣にもなるから注意すべきとは思う(NLPのセミナーには「精神疾患のある方お断り」の注意書きがある)。

    その意味で、アドラーは「切れ味にぶい」ので、あまり毒はないと思う。


    「アドラーの思想は雑多じゃない、ちゃんと体系化されている」ってのが岸見氏の主張かもしれない。

    でも、それってやはり、「思想」でしかないんじゃないかなと思う。

    「体系化された理論」というのは、自己も含めた世界全体を記述できる統合された記述言語のセットのことだ。

    それに対して「思想」が切れ味を持つのは、歴史的に特殊ないくつかの事象をより納得できるように説明することにある。

    たぶん、20世紀初頭という時代には、アドラーの思想がそういう首肯性を持っていたんじゃないか。

    だから、後年のフランクルなどはアドラーの思想にリアリティを感じられず、反発したんじゃないか。

    20世紀のベストセラー・リストにフランクルの著作があげられるのは、フランクルがまさに「20世紀的なもの」を生き切ったからところに理由があるのではないか。


    アドラーの思想が体系化されていたというのなら、アドラーの思想はアドラーの思想をどのように記述するのだろう?

    「このような《幸福追求》の欲望に踊らされているようじゃ、まだまだ幸福にはなれない」とでもいうのかしら?


    この項目のタイトルを「プログラムとして脆弱」としたのは、たとえば次のようなもんだいに、アドラーはどう答えるのか、岸見氏の議論ではよくわからなくなるからだ。

    「アドラーは『優越コンプレックス』や『劣等コンプレックス』を批判して、『普通であれ』という。平凡で普通である自分に充足せよという。しかしわれわれは、平凡にも普通にもなれない、ということに悩んでいるのだ。『さしあたり人並み』であれば、とりあえず幸福なのだ。『自己受容』も『他者信頼』も『他者貢献』も大事でしょう。『貢献感』があれば幸福にもなるのでしょう。しかし、この私がそういった行為や感覚から遠ざかっているのは、優越を目的としているのでも劣等を目的としているのでもなく、人と違わないことを目的としているからだ。この私は人と違う、そのことがいまここで問題になっているのだ」

    こういう問題を主訴とする人は、いまの日本に非常に多い(個人的な経験論でしかないけど)。

    アドラー派であれば、たぶん、こういう問題も、「優越コンプレックス」や「劣等コンプレックス」の亜種と捉えるか、もしくは新たな概念を接ぎ木するのだろう。

    でも、この問題に接したときに、われわれの抱く反応からすれば、それは事態をちょっと複雑に見すぎているのではないか、と感じられるだろう。

    われわれは、「べつに、平凡じゃなくても、普通じゃなくても、いいんじゃね?」と、口に出さずとも、思うことだろう。

    現代の一般的なカウンセリングの立場も、そういう感覚(アドラー派の概念で言えば「共同体感覚」?)を共有していると思う。



    もちろん「岸見アドラー」だけがアドラーじゃない、としても、本書『嫌われる勇気』で「説明」されるアドラーがアドラーなのだとすると、21世紀にはほとんど使えないんじゃないか。

    というよりも、使いづらい。

    自己受容するにしても、"いまここ"に焦点をあてるにしても、もっと効率的でエビデンスのある手法が、心理臨床の世界では常識的に使われているのだから、わざわざアドラーを持ち出す意義がよくわからない。


    「幸福とは貢献感を持つことだ」というのも限定的過ぎる。

    本書で出てきた例で言えば、被介護老人や病人であっても、他者貢献していないことにはならない。

    そこまではいい。

    でも、他者貢献しているからといって、必ずしも貢献感を抱くとは限らない。

    感情や認知が解離していたり自己意識の機能が失われていたとすれば、どんなに貢献していても貢献感を抱けない。


    じゃあ幸福とはなにか。

    現代的に言えば、「幸福とは幸福感を感じることだ」とでもなるだろう。

    前述した「解離した人」や「自己意識の機能がない人」は幸福か?

    答えは「本人でなければわからない」だ。



    3.宗教にしては伝統がない

    アドラー心理学は、岸見氏のいうように、心理学というよりも、思想なのだけど、前述したように、「こうすれば幸福になれます」というプログラムが存在する点が、じゅうらいの意味での思想と比べて画期的な点だ(といっても自己啓発の世界では、そういうのが一般的だけど)。


    で、これが間違っているとか、危険だ、と即断するわけにはいかない。

    「信じる人には効く」のがアドラー心理学で、その意味では宗教に近い(とかいったらアドラーは宗教的神秘体験をないがしろにしたと批判したフランクルが怒るけれど)。

    なので、間違っちゃいない。

    危険性にかんしてはどうかというと、いわゆるカルト教団などに比べて、その手の危険性は厳密に排除されている。

    「社会との調和」が至上目的なのだから、反社会的になるおそれもあまりないだろう(岸見氏は「一般常識を覆す」と言っているが)。

    「他者の課題には介入しない」ことを教義にしているのだから、「よかれと思って霊感商法をする」おそれもあまりないだろう。


    じゃあ、まるで危険がないかというと、そうでもない。

    岸見氏が言うように、

    アドラー心理学の教える技法は非常にパワフルですから、人を支配、操作する道具になってしまうという危険は絶えずあります。人を支配することはできない、あるいは他の人を私の道具、手段にしてはいけない、さらには私の課題を人に解決させることはできないということを、講演のシンプルさを犠牲にしてでも言葉を尽くして話しています。

     初心者向けの講演では、勇気づけについて話すことが多いのですが、これとて子どもに適切な行動をさせるための技法であるととられる危険性は高く、長年学んでいる人でも誤解している人は多いように思います。

     どのような対人関係も対等の横の関係でなければ、アドラー心理学が教えるあらゆる技法すべて無効、それどころか有害なものとなってしまいます。

    日本アドラー心理学会

    という危険性がある。

    そこまでパワフルかな? という疑問はあれども。

    一番危険なのは、アドラーの概念を使って、同意を得ないままに他人を判断するところにあると思う。

    これ、たとえばボウエンのところに留学した家族療法家が「君は自己分化がたりない」と批判しあうとか、他の学派でも生じがちなのだ。


    他人に介入してはならないのだから、自分に介入するしかないのでは、と思うかもしれないけれど、それでも危険は危険。

    「他者からの承認を得ようとしてはならない」と禁欲する人は、遅かれ早かれつぶれるだろう。

    「すべての悩みは人間関係から生じる」というアドラーのテーゼは、交流分析のエリック・バーンのテーゼにもなっているが、日本で独特の発展を遂げた交流分析の第一人者である杉田峰康氏は「欲しいストロークがあったら要求すべし」と一刀両断である。

    こっちの方がすがすがしいし、肯定的だし、「理にかなってる感」があると思うんだけど。


    というわけで、新興宗教につきものの「危険な香り」はだいぶ薄まっているとはいえ、それでもやはり「信じるものしか救われない」感はぬぐえない。

    新興宗教じゃなければいいのかというと、だいぶいい、というのがぼくの意見。

    伝統宗教が、なぜ存続しているかというと、もちろん「惰性」(物理学でいう慣性の法則とかのあれ)の部分も大きいのだけど、単純に進化論的に適応できてきたからだ。

    世間の大部分の人が反感を感じるような宗教であれば、世界宗教にはなりえない。

    そして、近代社会においてもまだ生き残っているような宗教は、多文化主義や文化相対主義を採用して適応せざるをえない。

    日本における仏教が典型的ですが。

    神道やキリスト教と共存せざるをえない社会では、「あちらさんにはあちらさんの信仰があるし、それを否定するのは仏性に反する」とならざるをえない。

    いや、もともと仏教はそういうものだけど。

    中国に入ってだいぶ儒教化されてしまったのが日本に入ってきた大乗仏教だけど、中国で仏教を教えるときには、「儒教でいうとこういうことです」と教義を広めていった。

    奈良時代には神仏習合があった。


    キリスト教はちょっと特殊な感じがするけど。

    キリスト教はうまいこと帝国主義の波にのることができて広まったという事情があると思う。

    伝道師の主体的頑張りだけで2000年も存続したりはしないのだ。

    伝道師の主体的頑張りということでいえば、アドラー派だって頑張っていると思う。



    なんか脱線しまくりで、結局長文になってしまったけど、言いたいことを3つに絞ると、ぼくの感想はこうですということになるのだった。




    ダイエット

    (2月12日分)

    392日目。

    体重64.4kg(18.1kg減)。体脂肪率17.5%(10.1%減)。



    ぼくのダイエット法はコチラ(ようはケトジェニックダイエットを認知行動療法でサポートしたものです)



    ダイエット指南のメルマガ発行してますダイエットの教科書@まぐまぐ



    認知行動療法ダイエットプログラム主催しています(ぼくも実践しているケトジェニックダイエットの指導もしています)



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    [T83] アドラー心理学

    今日から、フジテレビでアドラー心理学の”嫌われる勇気”(岸見一郎氏著)をベースとした、 刑事ドラマがやるらしい。知らなかった・・・( ̄◇ ̄;)

    コメント

    [C19]

    はじめまして。
    たいへん興味深くブログを拝見させていただきました。

    『嫌われる勇気』読書会&講演会にご参加されると
    より深く理解されるかと思います。
    よろしければぜひご参加ください。

    11月09日(日)13:30~
    新大阪丸ビル新館 609号室 

    noblesseoblige.co@gmail.com

    http://www2.ocn.ne.jp/~cerulean/301.html

    [C20] これは子供向け本だ

    私も買って読みました。
    なんとも汚粗末な内容。
    むりやりこじつけた屁理屈や例えが悪すぎ。
    子供向けの本。
    私の考え方とは正反対の内容だった。

    先のコメントのように、講演会に誘うような意味合いを持っている所は、自己啓発本によくある手口。
    自分の考え方だけが正しいという思考が見える。
    アドラー派は人間に対する認識が非常にあまい。
    アドラー自身が劣等コンプレックスで、アドラー派は優越コンプレックスなのだよ。
    • 2014-12-04 09:52
    • 匿名
    • URL
    • 編集

    [C24] アドラーを誤解しないために

    面白いご持論でした。私は真逆の感想を得ましたけれど、このような捉え方もされるのかと感じました。
    お伺いしたいことがあるのですが、アドラーは貢献感は自分が決めることで他者から承認される必要はまったくない。と言いきっています。
    あなたの書いている内容はあくまでも他者からの、というか、あなたからの承認で相手の価値が決まると言っているようなのですが?
    だとしたらアドラーの言っていることとあなたの言っていることは食い違いが生じます。
    個人心理学はカウンセラーなどいらないので、そこもお間違えなく書かれた方がよろしいかと思います。
    普通でもいいという言葉はあなたはあなたのままで何も問題は無いという意味で、あなたの言うような承認を得なければ壊れてしまう様な特別ではないということではないかと思います。
    • 2016-03-21 20:24
    • ドアラー
    • URL
    • 編集

    [C25] >ドアラ―(ngn1-ppp3602.west.sannet.ne.jp)さん

    読んでくださって大変嬉しく思うのですが、もう少し、日本語を勉強されてからコメントを書き込んでくださると、コミュニカティヴになるかと思います。

    【1】「お伺いしたいことがあるのですが」とあるのですが、何を聞きたいのでしょうか?
    【2】「アドラーは貢献感は自分が決めることで他者から承認される必要はまったくない。と言いきっています。」とあなたは書いていますが、アドラーのどの論文で言っているのでしょうか?
    【2-1】「貢献感は自分が決める」ことと、「他者からの承認が必要でない」ことは、無関係のことですよね? で、私の記事では、《感情や認知が解離していたり自己意識の機能が失われていたとすれば、どんなに貢献していても貢献感を抱けない》と問題提起していますよね? そこ読みましたか? 噛み砕いて言うと、「『貢献感』が必要だ(もっと言うと貢献感を自ら抱くことが出来る人に価値がある)、と岸見一郎は言うのだが、意識がない人はどうしたらいいの? 価値が無いの?」という問題です。脳死状態の人には価値が無いからどんどん殺しちゃっていい、とあなたはおっしゃるのですよね?
    【3】「あなたの書いている内容はあくまでも他者からの、というか、あなたからの承認で相手の価値が決まると言っているようなのですが?」と書いていらっしゃいますが、これは日本語の文法上、意味を為す文ですか?
    【3-1】チャリタブルに、次のように読解するとします:「あなたは他者承認によって人の価値が決まると言っているように思える」(ドアラ―さんがこう言いたかったのか、分かりませんが)。これに回答すると、「あなたの誤読です」。私の考えでは、他者からの承認によっても、自己による承認(自己受容)によっても、人の価値は決まらない。そもそも、人に価値があるだとか、無いだとか、考えたり言ったりすること自体が、越権行為である。ゆえに、他者承認を求めてもかまわないし、自己受容してもかまわないし、どっちだっていーじゃねーか。なんで「他者承認を求めるな!」なんてゆーお説教たれんのお前は。という感じです。
    【4】「普通でもいいという言葉は(略)あなたの言うような承認を得なければ壊れてしまう様な特別ではないということではないかと思います。」とありますが、私の文章のどこをどう読んだら、あなたが行ったような理解が可能になるのでしょうか?
    【5】「個人心理学はカウンセラーなどいらないので、そこもお間違えなく書かれた方がよろしいかと思います。」とありますが、ドアラ―さんのこの言葉は、アドラーが生涯かけて誠実に行ってきた心理療法・カウンセリングを全否定するものですが、そのように理解してかまいませんでしょうか?
    【6】ドアラ―さんの書いてくださったコメントは、全体的に、「アドラー」「アドラーの言っていること」などが主題になっております。しかるに、私の記事はアドラーとはほとんど無関係に書かれています(この記事は、岸見一郎への批判として書かれた文章です)。どうしてこんな無関係の話題を唐突にこのブログに書き込むのでしょうか?

    では、お大事に。
    • 2016-03-21 23:25
    • Hideo Saito
    • URL
    • 編集

    [C27] 岸見氏のカウンセリングに傷付いた私

    今、岸見氏の取り扱われている「アドラー心理学」が世に持てはやされていることに対して、なんとも表現の出来ない思いを抱えている一うつ病患者です(50代のおばさん)
    私は岸見氏がまだ世に出られていない13年前に彼のカウンセリングを受けていました。京都市内の診療所で彼はカウンセリングを行っていました。その他の学校や大学でも講義を持ち、自宅でもカウンセリングを行なわれていたようです。
    (こんな個人情報を書いていいのか、本当に失礼なことではありますが)
    当時、私はあちこちの病院を渡り歩いていました
    。自分の病気を治したいがためのジプシーです。うつ病の自分にとってぴったりと合う病院に巡り合うことが出来ずの放浪。そうして岸見氏のカウンセリングに出会いました。出会った当初、私は彼の言う「アドラー心理学」に目を見開かされた気持ちになり、「私が出会いたかったのは、私を救ってくれるのはこのアドラー心理学しかない。岸見氏しかいない」とまで衝撃を受けたのでした。すぐさまに彼の書かれた本を手あたり次第読み、アドラー心理学の他の方々の本も読み漁りました。そのたびに、「目からうろこ」状態になり、どんどんと岸見氏及びアドラー心理学に心酔していきました。
    ところが、彼のカウンセリングを続けるに従い、病がどんどん、酷くなっていくのです。彼は「苦しいと思うこともある。それがアドラー心理学であり、そこを越えて行けば必ず病は治る」というようなことを説かれます。「わかっていて辛いことも言う」と胸を張って説かれている。さも、患者がそうなることが「私は分かっている。」そこには「自信満々」な「自信」が漂っていました。「私は凄いのだぞ。私はなんでも分かっている。君の病のことも分かっている。」とでも言うような。
    当時、彼は患者にも自分のMixiのメンバーになれば、というようなお誘いをされていました。私はそれも当時は嬉しく早速に入ったのですが、自分がホストであるから故にか、そこの王様的な立場。みながそこでは彼の言葉をただただ信じ続け、彼が「アドラー心理学を通しての問題を出し、それにメンバーが思い思いの答えを書くと、最後に彼がアドラー的な答えを書く」というようなこともされていました。
    私は「病気である者をどうしてこの場に招いたのだろう」とだんだんと不信感を抱くようになりました。ここで語られる健康であるメンバーの書き込みを(もちろんアドラー心理学に関係していることですが)心の病を持つものに読ませて、その者たちがどんな感情を抱くのか、想像をすることがこの人には出来なかったのだろうか、と。
    そして、健康なメンバーの方が岸見氏に質問されたある事に対する彼の「アドラー心理学」としての答え。「ああ、これは絶対に違う!!!」と思ったのです。ある子どもの行為に対する親の対処についてだったのですが。彼の言う方法を取ればその子はもっともっと苦しむようになる。うつ病の私にはそう思えました。それであるのに、彼は高らかに自分の考えが「正しい」ということを語られた。「これはおかしい…」少しずつ不信感が募っていきました。
    そして、彼は私の1回目のカウンセリングの時、私のプロフィールを聞き、「結婚が遅かったんだね」と言われました。「は?」私には私の生き方があり、人生がある。それを何も知らないあなたに「遅い」と断言され、さも、私に問題があるかのように言われる筋合いはない、と思ったのです。「遅い」とは何の基準なのだ、とも。ただ、その時は初めてでもあり、藁にもすがりたい時、聞き流すことにしたのですが。
    それから、あくびをかみ殺すカウセリングの日が何度もあり。彼は「アドラー心理学は過去は関係ない」といい、私が歩んだ道については全く聞きもしていないのに、「あなたが過去で失敗したことはもう忘れて云々」とのたまわれたのです。私の過去の人生は「失敗だったのか?」あなたは私の何を知っているのか?どんどんと彼に対する不信が心の中に積もっていく日々でした。
    私は私なりにアドラー的(俄かですが)な解釈をして自分の病と闘っていました。そして、どうしても理解できない、対処できない問題に辿りつき、岸見氏に問いました。けれど、彼の答えは返ってきませんでした。いえ、何かを応えていたのですが、肩透かしだったのです。
    「ああ、ダメだ。この人はダメだ」
    それまでにも、彼にカウンセリングを受けるようになってから、どんどん自分の病が酷くなっていくのは感じていました。
    私はこの診療所を止めました。
    だらだらと支離滅裂なことを書きました。ただ、私は「アドラー心理学」云々より前に岸見一郎という人はカウンセラーになってはいけない、こんなふうにもてはやされてはいけない、と声を大にしていいたいのです。
    彼は「アドラー心理学」の心理学は学んでいない、と言われていることに怖さを感じます。
    Hideoさまが書かれていることに何度も何度も頷きました。
    私は今、違うクリニックに通っていますが、そこでのカウンセラー、Dr・は岸見氏とは全く違います。比べものにもならない。様々に学んだ知識に加え、人としての優しさ、尊さがある。
    彼はただのコンプレックスの持ち主でしかなかった、と彼の過去などを彼のカウンセリングから聞いた私には思えるのでした。
    Hideoさまのこのブログを読ませて頂き、溜飲が下がりました。
    ありがとうございました。
    (バカな投稿ですみませんでした)
    • 2017-02-01 17:44
    • ままみい
    • URL
    • 編集

    [C28] 上の投稿のつづきです

    ・『「自信満々」な「自信」』は
     『鼻高々な「自信」』(態度が物凄くえらそうに感じられたものでした)

    ・『彼は「アドラー心理学」の心理学は学んでいない』
    は『彼は「アドラー心理学」の他の心理学は学んでいない』

    へたくそな文章でごめんなさい
    • 2017-02-01 17:52
    • ままみい
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