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    『バタフライ・エフェクト』と精神分析の倫理


    雪だるま
    使用機種
    E-PL2
    使用レンズ
    M.ZUIKO DIGITAL 17mm F2.8
    絞り値
    F2.8
    シャッター速度
    1/15秒
    ISO
    1600
    露出補正
    0.0EV
    撮影日時
    2011/12/31 23:07:35





    『バタフライ・エフェクト』と精神分析の倫理


    何年かぶりに映画『バタフライ・エフェクト』を観たのだけど(続編が第3弾ぐらいまで出ていることを去年になって知って、そういえば1作目ってどんなストーリーだったっけ、と思い出せなかったので――まさにこの映画のモチーフそのものだね――観なおしてみた)、あいかわらず面白かった。

    この映画はほんとうに、何度観ても面白いので、まだ観ていない人は、観るといいと思うよ。

    これは万人にオススメ。


    ところで、ここから先は、ネタバレを多く含む感想になるので、まだ観ていない人は、スクロールして「ダイエット」と書いてあるところまで飛ばしてください。



    じゃあ、ネタバレします。

    この作品は、主人公エヴァンの「記憶」をめぐって行われる、一種の「タイムトラベルもの」のSFだと言ってよいだろう。

    エヴァンが心理学専攻で、「記憶に関する従来の説へのチャレンジ」をしているとかなんとかいうエピソードが出てくるけれど、心理学にもとづいたサイエンス・フィクションだというわけではない。

    だいたい、心理学専攻のエリートが、心理学専攻であることをアピールするキーワードがパブロフっていうのはどうなんだ。観客をバカにしているのか。

    記憶――エヴァンが過去に「ブラックアウト」したときの、欠如した記憶――を使ってタイムリープするというのも、心理学的にはめちゃくちゃだ。

    記憶さえ変われば、現在の事実も変わるなんていう心理学理論はない。

    記憶が変われば、認知が変わって、人格性も変わる、という理論はあるけど。

    じゃあ、まったく科学的理屈づけができないSFかというと、そんなことはない。

    そもそも科学的理屈付けができなかったり失敗していたら、そもそもSFではなくてファンタジーだ。

    では、ぼくがこの作品の理屈付けとして何を採用できると考えているかというと、精神分析だ。

    そもそも精神分析は科学じゃないだろう、というツッコミはあるだろうけれど、精神分析とはそもそも科学というよりもメタ科学であり、心理学に対するメタ心理学としてはじまったものであることからもそういえるのだけれど、精神分析はどちらかというと論理学に属する分野だとぼくは考えている。一言で言えば「理論」ということになるけれど、精神分析はかぎりなく「理論」に近い「モデル」であって、そこから抜け出せていないところが弱点、というふうにぼくは考えている。


    この作品は、7歳のエヴァン・13歳のエヴァン・20歳のエヴァン(ラストにさらに8年後のエヴァンが出てくるけれど)の3つのポイントを、「ブラックアウト対策」として書かされていた日記をもちいて、過去を変える介入を行うことで展開する。

    例えば20歳のエヴァンが、一度7歳に戻って、現在に戻ってくると、最初の20年に加えて、書き換わった13年間分の記憶が一挙に脳に埋め込まれる。

    これで、一瞬にして33年分の記憶が、20歳のエヴァンには備わることになる。

    このパターンを2、3回繰り返したときに、エヴァンの主治医が、大脳皮質からの出血があって、神経の再生が行われている、と述べている。

    エヴァンは、「たった1年で40年分の記憶が増えて、脳がパンク、それで脳が容量を増やした」みたいなことを言って、けむにまいている。

    主治医は、その通りだとしか言いようがない、とでも言いたげに、黙りこくる。

    このとき、エヴァンは、自分がどういう能力を手に入れたのか、完全に理解している。


    エヴァンはあるとき、自分の父――記憶では、過去に、精神病院に入院している父に面会したときに、殺されそうになっている――も、自分と同じ能力を持っていたことを、母親との会話で知ることになる。

    エヴァンは「能力」を使って、父親に会いに行き――ちょうどその面会の時にもブラックアウトしているので、そのポイントに行けることを知っていた――「正解」を父から聞き出そうとするのだが、父親は、その能力を使うのはやめろ、人々が不幸になる、母親も死ぬかもしれない、とさとす。

    エヴァンは自分の能力を過信しており、これでみんなハッピーになるんだから大丈夫、みたいなことを言って、父を激昂させる。


    じつは、ここが「精神分析的倫理」の第一のフックだ。

    ただし、完全に倫理的ではない。

    精神分析の倫理とは、ラカンの言葉でいえば「欲望に譲歩しないこと」ということだが、まずエヴァンの父は欲望をあきらめており、倫理的ではない。

    エヴァンは「欲望を手に入れられる」と信じきっており、これもまた倫理的ではない。


    説明が前後するけれど、ラカンの言った「欲望」とは、つねに「欲望の対象」を持っている(正確に言えば「対象が欲望の原因である」)。

    これをラカン用語で「対象a(たいしょうあー)」というのだけれど、その特徴は、「その存在があらかじめ失われていること」だ。

    「対象はあらかじめ失われている」のだから、対象を次々と別のものに移行させていくと考えた英米圏の「対象関係論」をラカンは徹底的に批判した。

    だいたい最初の対象は乳房で、だけど母親のおっぱいしか安全で自分の欲望を満たしてくれるものはない、と思い込んでいたらヒトは生きていけないので(その段階を、唇から快楽を得る段階という意味で「口唇期」という)、糞便(「肛門期」)とかセックスの対象としての母親(これはもちろん象徴的な意味だ)とかを経て、ある種の人間関係(だいたい家族内の関係であることが多い)とか、お金とか、名誉とか地位とか、あるいは男性にとってはトロフィーワイフ(いい女と結婚して、他人に自慢したい、というけしからん男性の欲望だ)とかに移っていく、というのが対象関係論(って言ったら怒られるだろうけど)。

    ラカンの画期的なところは、対象aは確かに、主体の想像のなかに存在するのだけれど、あくまでも想像であって、本質的には存在していない。

    というか、そういう言い方は誤りであって、存在を失っている。

    「存在」と、日本語で言うからわけがわからないのであって、西洋語でいえば、存在動詞、英語で言えばbeのことだと思えばいい。

    むかし、90年代頃まで、いわゆる「現代思想」の世界では、「主体はある」みたいな書き方をした(正確には、「ある」の部分をバッテンで消していた)。

    「主体はない」のではなく、「主体はある」というところがポイントで、つまり存在=beを欠如しているのが、主体であり、また、主体を構成するところの対象たちである、ということだ。


    脱線ついでに書いておこう。

    英語で、"There were nothing."と言えば、「なにもなかった」という意味になるんだけど、直訳すると「無が有った」ということになる。

    これ、禅問答みたいだよね(笑)。

    仏教文化圏で、「有があれば、無がある」と言えばなんとなく理解できるけれど(したがって、「さらにその二項対立を超えて「空」に到達しなければならない、ということになるんだけど)、無が在る、というのは、西洋の人たちはどう考えているんだろうね?

    ぼくは長年、塾で英語講師をしていたけれど、nothingとかnobodyとかno+名詞、みたいな表現のときのnoは、「ゼロ個の」という意味だと考えろ、と教えてきた。

    つまり、"There were nothing."は、「ゼロ個のモノゴトが存在した」=「存在したモノゴトの数量はゼロであった」という意味になって、なんていうか、20世紀的なサイエンス(つまり統計科学のことで、ぼくはそんなものは科学の一分野でしかない、過程的なものだと考えているのだけれど)に近い感覚になる。


    ラカンが非倫理的だとした「欲望に譲歩すること」は、言いかえれば、想像でしかない欲望の対象に騙される、ということでもある。

    欲望はそもそも想像された対象に向かうものであって、その対象はあらかじめ存在を欠如しているのだから、満たされることもありえない、ということになる。

    「私が求めていたのはこれだ!これを手に入れたから、私は永遠の幸福を手に入れた!」などと思い上がるのは、ラカンに言わせれば、幻想でしかない。

    そして、幸福とか健康というのは、そういう幻想のうえではじめて成り立っている。

    だから、人間というのは、つねに煩悩と戦って(幻想に騙されることなく)、果てることのない欲望の「向こう側」へと辿り着こうという意志であることが理想だ、ということになる。

    仏教みたいだね。

    じっさい、仏教とラカン理論を絡めて論じる人もいるけど、仏教の到達するさとり、つまり一切の欲望から解放された状態を目指すことは、すでに「欲望を諦めようとする意志」であって、その時点で、たぶんラカンにとっては倫理的でないことになる。


    『バタフライ・エフェクト』にはなしを戻すと、父に「正解」を求めに行ったときのエヴァンは、欲望の対象が存在すると疑っていない点で、やはり倫理的でない、ということになる。


    さて、エヴァンは、過去への介入をすればするほど、どんどん不幸になっていって、疲れ果ててくる。

    自殺まで試みる。

    最終的に、エヴァンは、ちょっとやそっとの介入では、なにをやってもダメだ、ということに気づく。

    そこで最終計画が出てくる。

    「彼女を助ける」ためには、そもそものはじめからを、すべてちゃぶ台返ししなければならないことを知る。

    エヴァンの彼女に対する愛は、彼女がエヴァンを好きにもならなければ、そもそも記憶に残る人物であることさえもなかったことにするのでなければ、成就しない。

    これはまともに考えれば、変だ。変質者の考えだ。

    私の彼女への愛が成就するためには、彼女が私に出会ってはいけない、などという発想は、紳士的なストーカーみたいなものだ。

    だけど、エヴァンはこれを実行する。

    エヴァンは欲望をあきらめなかった。


    ここが、「精神分析的倫理」の第二のフックだ。

    エヴァンは、あらゆる欲望をかなぐり捨てているように見える。

    愛する人をパートナーにすることどころか、愛する人の記憶に自分がいることさえも、捨てている。

    そうした通俗的な欲望を捨ててまで、エヴァンは根源的な欲望(それを「根源的」などと言ってしまうのも、幻想にすぎないわけだけど)に忠実であろうとする。


    この作品は、ハッピーエンドで終わる。

    エヴァンの計画が成功裏に終わることによって。

    もちろん、ラストシーンは、ほろ苦い。

    その意味で、本当のハッピーではない。

    ハッピーであることは、幻想なのだから。

    エヴァンの手に入れたハッピーは、幻想を突破したところにある、不健康なハッピーだ。


    この作品に感動して、エヴァンをヒロイックに観てしまうのだとすれば、あなたにはそういう変質者の才能があるのかもしれない(もちろん褒めている)。


    この作品の終わり方や、「ループもの」という構成から、『魔法少女まどか☆マギカ』を思い出した人もいるだろう。

    まどかの最後も、ある種ヒロイックなものだった。

    それも、かなり倒錯的なヒロインのあり方だったため、「オチをつけるのを放棄した」というたぐいのありがちな批判も多かった。

    しかし、まどか☆マギカは、あのラストなくしては、成功しなかっただろうと思う。

    「願いを叶えて、魔法少女になる」ということは、究極の「欲望を満たす」行為だ。

    まどかは、あらゆる魔法少女たちの「欲望を満たす」行為が自滅行為に陥ってしまったことを知っていた。

    だから、「願い」を成就することによって、自らの主体をも欠如状態にもちこんだ。

    力技だ。

    それにひきかえ、ほむらのループ、「強さのパラメータを維持してリプレイ」は、まったく修行者のように尊い。

    仏教的な倫理観とは、ほむらに体現されるだろう。

    まどかは、自分自身がほむらの欲望の対象だったことを知ってもなお、自分の存在を抹消した。

    これは、仏教的倫理と異なる、精神分析的倫理の体現ということになる。


    ラカンは、欲望を満たす(つまり幻想)ことによって得られる「快楽」とは区別して、「享楽」という概念を提出した。

    享楽は、それをそのまま享受してしまうと、死に至ってしまうような、強烈な体験だ。

    欲望や快楽(や健康や幸福)は、その危険を回避するためにヒトが人工的に生み出した幻想、ということになる。

    まどかは、享楽へと飛び込み、その姿は通俗的な意味での快楽をすべて捨ててしまっているので、崇高にみえる(精神分析的には、まさに崇高そのものだ)。

    『バタフライ・エフェクト』のエヴァンは、ラスト10分までほむら的快楽を追い求めて(あきらめないで)、最終的にまどか的享楽へと飛び込んだ。

    そういう意味で、この作品とまどか☆マギカは、構造上の類似性を持っているといえるだろう。



    ダイエット

    (1月19日分)

    368日目。

    体重63.2kg(19.3kg減)。体脂肪率17.8%(9.8%減)。


    ぼくのダイエット法はコチラ(ようはケトジェニックダイエットを認知行動療法でサポートしたものです)



    ダイエット指南のメルマガ発行してますダイエットの教科書@まぐまぐ



    認知行動療法ダイエットプログラム主催しています(ぼくも実践しているケトジェニックダイエットの指導もしています)


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