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    ラーメン屋で隣に座った熟年カップルが大声で2013年の話をしていた

    ダイエット

    340日目。

    体重65.0kg(17.5kg減)。体脂肪率18.0%(9.6%減)。


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    ラーメン屋で隣に座った熟年カップルが大声で2013年の話をしていた

    クリスマスケーキ

    いつもお世話になっている福島市・家族カウンセリング研究所陽だまりのクリスマスパーティーにおじゃましてきました。

    @MEGAクレヨン。

    1年ぶりぐらいにケーキを食べました(たぶん)。

    唄った曲は"1mm"(Perfume)、"にんじゃりばんばん"(きゃりー)、"spring of life"(Perfume)、"恋はみずいろ"(七咲逢)でした。



    さて年末ですね。

    カレンダーを意識したことはありませんが。

    生きていると(これでも生きているのです。たぶん)たびたび「今年を振り返って」みたいな記事を見かけます。

    ぼくもやってみます。

    あまり意味はありません。


    今年を振り返ると、2つのことが言えます。

    1. 「今年は《種まき》に徹しよう」と決めていたはずだったが、「気づいたらすでに芽吹いていた」という事態、および「まいた覚えのない場所からも芽吹き始めていた」という事態、これらが生じた年だった

    2. 長年の目標だった「心の拠り所」を身体化することに成功した


    順に説明しましょう。



    1.

    今年の初旬の目標は、「とことん種まきに徹する」というものでした。

    ぼくの頭のなか(構想=事業計画)をスライドやプレゼン資料にすると、たいていの人にとっては「距離がある」と感じられる諸事象が関連付けあって構築されたような建築物に見えるようで、「これとこれはどう関係があるの?」と多くの場合は聞かれたし、ひどい場合には「雑多に見える」という評価も頂きました(もちろんもっとひどい場合には「ぜんぜんわからない」と言われましたが、それは知的水準の低い方の場合です)。

    当然ながら、分かる人には分かるものなので、「これが成功したらすごいね」と褒めてももらえましたが、分かる人にだけ分かってもらっても意味がないのが事業計画というものなので、「まずは具体的にできる範囲で、プロトタイプになる現実を創出して目にしてもらおう」という作戦で行くことにしました。

    初年度の今年は、「種をまく」。

    はたから見ていると、てんでデタラメに、乱雑なまき方をしているように見えたことでしょう。

    これが育つと、どのような建築物ができあがるのか、というよりも、そもそも建築物ができあがるように意図して種をまいているようには見えなかったことでしょう。

    ぼくの頭のなかでは、その種が来年以降芽吹き、やがてそれぞれが木になり、それぞれが接続・連結しあって、循環構造の建築物ができ上がる計画なのです。


    今年、予期しなかったことは、それらの「種」のうちのいくつかが、いまもこうして種まきしている間に、すでに芽吹いてしまったということです。

    これは驚きでもあり、喜びでもありました。

    「それをひとつでもいいから具体的に教えてよ」と言われても困るのです。なぜなら同業者でなければ何の意味があるのかわからないような専門的で瑣末なものばかりだからです。

    しかし、逆に言えば、「専門的スキル」に関して、とても大きな飛躍が生じた、ということは断言できることになります。

    まだ「芽吹いたばかり」ですので、これが今後どういう意味を持ってくるのか、しばらく見守っていただければ幸いです。


    もうひとつ、「まいた覚えのない種まで芽吹いた」という現象。

    これはじゃっかん、次の項目に関係します。

    簡単に言えば、事業計画とは強く関連付けて考えていなかった、ぼく自身に関係することたちが、色んな意味で成熟して血肉化し、事業計画の中に後から挿入せざるを得なくなった資産が増えた、ということです。



    2.

    「心の拠り所」という言葉を使ったのは生まれて初めてのことですが、それはたんに思い入れがない言葉だからです。

    昨日の夜、阿澄佳奈と藤原啓治のラジオを聞いていて唐突に出てきた単語で、インパクトがあったので試しに使ってみました。


    それはともかく、「心の拠り所」という言葉ほどぼくに似合わない言葉もありません。

    この言葉が想定しているのは、「心の拠り所」を「必要とする」とか「必要としない」とかいった事態であるだろうからです。

    「心の拠り所」という場合、一般的にはどのようなものが想像されるのでしょうか。

    サラリーマンにとっての「生きがい」とかでしょうか。

    子を持つ親にとっての「子ども」とかでしょうか。

    はたまた若い人たちにとっての「恋人」とかでしょうか。

    脆弱な自尊心にとっての「承認」とかでしょうか。


    サイコセラピーの見地から言えば(というかぼくの出自である社会学の見地から言ってもそうですが)、承認のリソースを自己の外部に求めることは極めて危険なことです。

    それは偶発性に頼るということだからです。

    もちろん、サイコセラピー的には、外から(他者から)の承認――「ストローク」といいますが――は、ヒトが生命活動する上で必須の要件です。なので、ストロークが欲しければ欲しいストロークを他者に要求することが大事です。簡単に言えば「私のことを××と褒めるのではなく、○○と褒めて欲しい」と素直に要求できることが大事です。

    他者に承認を求める能力があるのは、他者を承認できる人だけです。もちろん、求める権利はあるのですが、事実上、世の中そうなっています(子どもは別です。子どもは、無条件に承認されなければならない特権的存在です)。

    そして、他者を承認できるためには、その前にまず自分を承認できるようになっている必要があります(これはたんにサイコセラピーの理論上の定義にすぎませんが)。

    したがって、「承認が欲しいのならば、まず、自己承認できるようになってください」と言うようにしています。

    しかしこれはいかにも教科書的な一般論であって、言いながらもぼくはなんだか歯茎がムズムズします。


    これは《「心の拠り所」という言葉ほどぼくに似合わない言葉もありません》と上で述べたことに関係することですが、ぼくの理論的な出自に関連します。

    ぼくの理論的な出自とは、オートポイエーシス的システム理論のことですが、これについてここで詳細に説明するのは不適切なので、かんたんに一言で言えば、「インプットもアウトプットもしない閉鎖系が、自己の要素を自己自身で産出していく、自律的で自己言及的なシステムに関する理論」ということになります。

    古いタイプのシステム理論では、他者からのストロークはインプットということになるでしょうし、他者へのストロークはアウトプットということになるでしょう。これに対し、オートポイエーシスでは、インプットもアウトプットもない、と言っているわけで、定義上成り立たないはずだということになります。

    また、「心の拠り所」つまり「それがなければ心が倒壊してしまう」という事態は、「健康で正常な心」と「病んだ逸脱した心」との二元論を前提しているわけですが、そもそも心は、とりあえず生命活動に異常がなければ(死んでしまったとかでなければ)維持存続されるので、「倒壊」などないのです。オートポイエーシス的にはですよ。

    苦しかったりつらかったりするのならば、それは「病んで」いたり「逸脱」しているとみなして「治療」するのが適切なのでは、と反論されるかもしれませんが、そういった概念は、苦しみやつらさをやわらげる機能を果たすように作られた操作的概念であって、心の維持存続とは何の関係もありません。

    ついでにいえばサイコセラピーの目的は「治療」ではないので、そういった操作的概念が有害になることさえあります。


    ぼくが「心の拠り所」にしてきた――これまでの39年間――ことがあるとすれば、こうした《理論》を所有すること、これはつまり認識論を持つということになるのですが、上で簡単に説明したオートポイエーシスの言葉で言うならば、「心に拠り所などないし、心とは拠り所を必要とするようなものではない」というパラドキシカルな「心の拠り所」ということになります。何言ってんのかわかんないかもしれませんが。

    ところで「理論を所有する」「認識論を持つ」とは、どういう水準の話なのでしょうか。

    つまり「所有する」「持つ」のはどういう位相においてなのか、ということですが、これではぜんぜん「つまり」になっていませんね。どんな感じで、どんな塩梅で、理論を所有したり認識論を持ったりしているのか、ということです。

    「知的に」とか「概念的に」とか「理念的に」とかいろいろ言いようはあると思います。

    なかには「スピリチュアルに」という人もいるでしょう。

    まあ、それはそれでいいのではないかと思いますが(たぶん「スピリチュアルに」と言うような人は、それを「体験的」な位相で――LSDがガッツリキマったときのように――把握しているのでしょうから)、ぼくが長年求めていたのは、「身体的」な位相に、この概念的で理念的な認識論をインストールしたい、という欲望です。

    「欲望を求める」という文章は変じゃないの、と精神分析を嫌う人からは言われそうですが、精神分析的には欲望とは「欲望が欲しいという欲望」のことなので、変じゃないのです。


    そして(前置きが長くなりましたが)今年ぼくの身体に生じたことは、まさに、39年間抱え持ってきた認識論と欲望を、身体にガツッとインストールすることに、まだ取っ掛かりの部分にすぎないとしても、成功したということです。

    これは大きかったな。

    とても長い間「コミュニケーションとは」という研究に没頭し(社会学者時代)、サイコセラピストとしては「コミュニケーション・スキル」のトレーニングや「コミュニケーション・サイクル」への介入、といった仕事をしてきましたが、ぼくは、たとえば竹内敏晴がやっているような、身体レベルでのコミュニケーション(に関わるようななにごとか)をやらなければ意味がないのだ、と考えてきました。

    それは「ことばとからだのレッスン」といったものです。

    こうしたことができるようになるためには、まずぼく自身が、「声」を獲得し、「身体」を獲得する必要があった、というわけです。

    当たり前ですが。

    すごくぶっちゃけて種明かしをすると、2013年の1月から、ぼくはロングブレス・ダイエットを始めました。

    『必やせ最強ブレスダイエット』です。

    このテキストの付録DVDは、観た人は誰でも丹田呼吸法をマスターできてしまうという、史上最も優れた、画期的なものです。

    これまでは、丹田呼吸法は、どれだけ言葉を尽くして説明されても、結局のところワークショップか坐禅会に参加しなければ身につけられないハードルの高いものでした。

    呼吸法だけでなく、姿勢も、体幹づくりも重要でした。

    トレーニングがもっとも順調だった時には、ぼくには「10秒あればどんな感情にも意図的に移行できる」というすばらしい能力が備わっていました。いまはちょっとトレーニングをゆるめてしまっていますが。

    これに次いで、10月から、「話し方講座」に通い始めました。

    なんでこれまで行かなかったんでしょうね(笑)。

    最初に思いついても良さそうなものなのに。

    意図的に「種まき」をしなければ、検索窓に「話し方講座」と入力することもなかったということでしょうね。

    まだ、自分の「最高の声」を獲得してはいませんが、どういう方向性でトレーニングしていけばいいのか、わかっただけでも素晴らしいのではないでしょうか。

    自分の声が気に食わない、というとき、「高い周波数の倍音成分が足りておらず、それはぼくのばあい咽喉腔の共鳴が足りないことに原因がある」というように概念で分析できることは、大事なことです。



    あ、今日のクリスマスパーティはカラオケだったんですが、生まれて今までで一番うまく歌えましたよ!


    雪とチューリップ

    今年の一枚。4月21日撮影。


    今日の詩篇

      ランボー

    刃物がこの脳みそを
    切ってしまわないかぎり、
    この白い なまの脂ぎった荷物
    さっぱりとしない もやもやをたてて、

    (ああ! やつめ、切ってしまわねばなるまい
    鼻も、唇も、耳も、
    その腹も! そうして棄ててしまわねば
    その足も! おお なんとすばらしいのだろう!)

    しかし、いや、まったく、思うに
    やつの頭へ刃物を
    脇腹へ小石を
    腸へ炎を

    ふるまってやらないかぎりは、そのガキ
    邪魔者、バカマヌケ、
    ほんの一瞬でも
    策を弄したり裏切り者であることをやめるべきではない

    ロッキー山脈の猫みたいに、
    どこもかしこも臭くしろ!
    けれどもやつが死んだら、おお神さま!
    祈りなんかも出ますように!

    (ピエール・ベレス旧蔵の自筆原稿を、宇佐美斉訳と中原中也訳を参考に、私訳)

    Honte

    Tant que la lame n'aura
    Pas coupé cette cervelle,
    Ce paquet blanc, vert et gras
    À vapeur jamais nouvelle,

    (Ah ! Lui, devrait couper son
    Nez, sa lèvre, ses oreilles,
    Son ventre ! et faire abandon
    De ses jambes ! ô merveille !)

    Mais, non, vrai, je crois que tant
    Que pour sa tête la lame
    Que les cailloux pour son flanc
    Que pour ses boyaux la flamme

    N'auront pas agi, l'enfant
    Gêneur, la si sotte bête,
    Ne doit cesser un instant
    De ruser et d'être traître

    Comme un chat des Monts-Rocheux ;
    D'empuantir toutes sphères !
    Qu'à sa mort pourtant, ô mon Dieu !
    S'élève quelque prière !



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