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    日本近代文学のゾンビ・俳句

    日本近代文学のゾンビ・俳句

    誰もが、「文学は死んだ」と言う。正確に言えば「日本の純文学は死んだ」ということになる(らしい)のだが、そもそも「純文学」という人為的カテゴリー自体が日本に特殊なものであって、そのような特殊な共同体(文壇)が消滅した、というのであれば、それはそうなのだろう。

    しかし、そう簡単に「文学は死んだ」と言える警戒心のなさ、というか、危機感のなさに、ぼくは違和感をおぼえる(だって、批評家が、批評家であるにもかかわらず、そう言うのだから)。

    ほんとうに「文学は死んだ」のであれば、警戒する必要はない。もっと、批評=批判の矛先を向ける必要がある、危険な対象物を探しさえすればよい。

    しかし、批評家が「危険な対象物」とみなして探し出してくるものごとはどれも、ことごとく「文学」(当然ぼくはここで「文学」ということで「近代文学」を指している)のテリトリーを少しも出ていないものであるように思える。


    もちろん、もはや誰も批評=批判などしておらず、ローカルなコミュニティで愛でることができる対象を探し出してくる便利屋に、批評家と呼ばれる人々が成り下がっている、ということも、現時点の状況であることは確かだ。

    彼らは自らの(自分たちの)アイロニーについて情熱的に語り、アイロニカルであることがいかに社会的に有用であるかを語るのだが、そもそも、アイロニーほどつまらないものはないし、アイロニーについて語る人ほど気持ちの悪いものはない。

    彼らは自覚してやっているのだろうが、「AKBはサリンの代わりに握手券と投票権をばらまくオウム」とか言ってアイロニカルな没入を賞賛するのであれば、オウムをも賞賛しなければ辻褄が合わないではないか(それはそれで社会工学的には必要なことだが、20年近く前に宮台真司が『オウム完全克服マニュアル』でさらっと片手間に済ませている)。


    文学が死んだようにみえるのは、その起源が忘れ去られているからだ。

    そして文学が生き延びているとすれば、その起源が忘れられた後のことである。

    「月並」な参照になるが、今の日本での俳句の浸透は、近代文学があらゆるローカルな文脈にすでに浸透してしまっていることの証左となるだろう。「流行」ではなく、「浸透」である。

    (正岡子規が俳句を発明するさい、近世の俳諧を「月並俳諧」として批判し、しりぞけたことが、日本近代文学の、「起源」のうちのひとつ、ということになる)

    日本には、句会などをひらく俳句結社が1000近くある。

    町のカルチャーセンターや公民館サークルでは、結社の主催者を指導者として、多くの人々が俳句に親しんでいる。

    もし、俳句に親しんでいる日本人がいかに多いかということに気づいていないとすれば、団塊の世代以上の人々との付き合いがないというだけであろう。


    手元にある石寒太『初めての俳句の作り方』(典型的な、入門者向けのチュートリアルとなっている)をめくると、レッスン(「ステップ」)の前に、「初めての一句・風景」「初めての一句・花」という、それぞれ見開き2ページの解説が、まさに「俳句の見取り図」として提出されている。

    それぞれ、柄谷行人かなんかの近代文学批評からパクってきたのではないかと思わせるような(敵の語彙を盗むとはこのことか、と思わせるような)、目もくらむような「ザ・近代文学」の語彙のみで構成されている。

    引用しよう。

    自然の風景に身を置いて、その美しさを感じたときどんな言葉が思い浮かびますか。感動したのは景色のどの部分か、しっかり観察するのが写生の第一歩です。自分で一句作るつもりで写真を見てください。

    花は季語そのもの、美しさと感動を自分の言葉で


    俳句の世界では、四季折々に咲く花はそのまま季語になることが多いのです。初めての人も、花を詠み込んで句を作れば季語に苦労することはありません。ちなみに、文学の世界では「花」といえば平安時代以降「桜」をさし、季節は春です。

    むろん、ここにはいかなる反省性もない。反省性(再帰性)を組み込んでいない、つまりパラドクスに対峙していない文学は、文学ではあるかもしれないが、近代文学ではない、という反論は可能だろう。

    しかしロマン主義もリアリズムも、それぞれ近代文学である(「近代文学」の二つの表現・二つの顔である)ことを忘れてはならない。

    むしろ近代的再帰性は、自らが再帰的である・パラドキシカルであることを忘れていることによって、最大の効果を発揮する。

    ここに引用した「俳句の見取り図」には、次のように列挙できる近代文学の前提が見られる。

    • 「風景(花)」は主観の外側に、客観的に存在する(リアリズム的前提)
    • 「風景(花)」を観察したとき、主観はそれを美的に感受する(カント的前提)
    • 「風景(花)」を観察したとき、主観には感情・感動が生じる(ロマン派的前提)
    • 「写生」がそのまま文学的効果を産む(リアリズム的前提)
    • 写真を撮る・観るかのように「風景(花)」を観察しなければならない(リアリズム的前提)

    現代詩が、明治以来の音韻性を警戒して自由詩を選びとったこと、愛国詩や短歌の朗詠が戦時中に利用されたことを警戒して詩の朗読=音読可能性を拒否したことは、正しかった。

    しかしその現代詩が真っ先に「文学の死」を体現したことは象徴的だ。

    近代文学への抵抗の最前線が、真っ先に文学に敗れ、文学が勝利したのだから。

    (そのような複雑な環境で生き延びることができている谷川俊太郎はやはり、ある意味偉大なのだろう)


    「俳句的なもの」は、なにも高齢者のサークル活動においてのみ生き残っているわけではない。

    登山やハイキングは「やらないヤツのほうが不健康」とみなされているし、秋の紅葉や春の咲きほこる花々を美しいと感じない者はヒトデナシ扱いで、病的なサイコパスとみなされてしまう。

    そして、「自然」や「風景」を美的に感受する知覚の組み換えが、近代文学による発明品であるという事実を、大衆、柳田国男のいう「常民」は忘れている。


    柄谷行人からの引用。

    文学に関しても同じことがいえる。たとえば、松尾芭蕉は「風景」を見たのではない。彼らにとって、風景は言葉であり過去の文学にほかならなかった。たとえば、芭蕉の「枯枝に烏のとまりけり秋の暮」という句は、杜甫の漢詩からの引用である。柳田国男がいったように、『奥の細道』には「描写」は一行もない。「描写」とみえるものも「描写」ではない。同じことが井原西鶴についてもいえる。リアリスト井原西鶴なるものは、明治二十年代以後に近代西洋文学の視点から見出されたものにすぎない。そして、そのような解釈は皮相且つ的外れである。俳諧師であった西鶴の作品に見出されるリアリズムとは、いわば「グロテスク・リアリズム」(バフチン)なのだ。

    (…)

    絵画から文学を見ると、近代文学を特徴づける主観性や自己表現という考えが、世界が「固定的な視点をもつ一人の人間」によって見られたものであるという事態に対応していることがわかる。幾何学的遠近法は、客観のみならず主観をも作り出す装置なのである。しかるに、山水画家が描く対象は一つの主観によって統一的に把握されたものではない。そこには一つの(超越論的)自己がない。文学におきかえていえば、そのことは、透視図法のような話法が成立しないならば、近代的な「自己表現」という見方が成立しないということを意味する。

    明治期以後のロマン派は、たとえば万葉集の歌に古代人の率直な「自己表現」を見た。しかし、古代人が自己を表現したというのは近代から見た想像にすぎない。そこでは、むしろ、人に代わって歌う「代詠」、適当な所与の題にもとづいて作る「題詠」が普通であった。しかるに、近代文学に慣れた者は、その見方を前代あるいは古代に投射してしまう。のみならず、そのようにして「文学史」を捏造するのである。明治二十年代に確立された日本の「国文学」とその歴史はそのようなものである。われわれにとって自明とみえる「国文学史」そのものが、「風景」の発見のなかで形成されたのだ。漱石が疑ったのはそのような風景である。

    あまりにもベーシックすぎて立ち返ることさえ恥ずかしい、と最近では思われているのかもしれないが、柄谷行人すら読まずに済ませることができると考えているのだとしたら、そのような「アイロニカルな姿勢」自体が、ベースな(卑しい)ネトウヨやらヘタレ保守オヤジを元気づけるだけではないか。



    (「俳句問題」あるいは「ポエトリー・リーディング問題」には、最近、文字通り身を投じて関わっているので、続きを書くかもしれない)


    ダイエット

    332日目。

    体重63.7kg(18.8kg減)。体脂肪率17.8%(9.8%減)。


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    今日の詩篇

    葉書  谷川俊太郎

    黄ばんだ
    葉書が
    残っている

    降り積もった
    時を
    けずる

    透き通る
    血が
    滲むまで

    死がもたらす
    幻の


    (詩集『minimal』)
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