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    そして父になる――アンチ・オイディプス時代のエディプス神話

    非常にグロテスクな映画だ。無意識的スプラッタ映画とでもいうべきか。いつからカンヌはスプラッタ・コメディに賞を与えるようになったのか。ラカンのフランスにおいてだからこそ、というべきか。


    是枝裕和監督による、第66回カンヌ国際映画祭審査員賞受賞作。ハリウッドでのリメイクも発表された。

    ストーリーの骨組みは、奥野修司による渾身のドキュメンタリ『ねじれた絆 赤ちゃん取り違え事件の十七年』(文春文庫)を元にしている(映画のエンドロールでは「参考文献」としてこの文庫本が言及されている。1995年の新潮社刊単行本では、1971年に沖縄県で実際に起きた取り違え事件について、1977年の発覚から17年間を、2002年の文春文庫版では、さらにその後の取材内容も加筆されており、じつに25年もの取材期間が費やされている)。

    奥野『ねじれた絆』は2004年にTBSでドラマ化され、今年2013年10月にはフジテレビでドラマおよび当事者へのインタビューのふたつの部分からなるドキュメンタリードラマとして放映された。


    本映画は、「医療現場での新生児の取り違え」というモチーフを残したまま、奥野ドキュメンタリとは異なる物語が語られる。

    おおよそ、前後半に分けられる。前半:福山雅治演じる野々宮良多とその妻みどり(尾野真千子)、その息子として6歳まで育てられた慶多(二宮慶多)の「エリート父・専業主婦・小学受験に成功した優しくおとなしい子」からなる第一トライアングル。リリー・フランキー演じる斎木雄大とその妻ゆかり(真木よう子)、その息子として6歳まで育てられた琉晴(黄升炫)の「一見いい加減な電気屋の父・パート勤めで粗雑な母・箸をちゃんと持てないやんちゃな子」からなる第二トライアングル(ただし琉晴にはその弟と妹がいる)。琉晴の小学入学時の血液検査で「取り違え」が発覚。両夫婦は病院相手に訴訟を準備する。良多は斎木家の家柄を見るにつけ、慶多も琉晴も、ふたりともに引き取ることを画策する。良多から見て、見るからに貧乏で家柄の良くない斎木家では、これまで育てた慶多も血の繋がった琉晴も、育つ環境として良くないことであるかのように感受される。なにより、これまで育ててきた慶多を血が繋がっていないという理由で手放す気にはなれず、かといって血の繋がった琉晴を他人と思うこともできない。こうした「画策」を、良多は思わず斎木夫妻の目の前で告白してしまう。斎木夫妻は傲慢な良多の考えに怒りを隠さない。

    後半へのブリッジとして重要な点は、この事件は当時看護師だった宮崎祥子による作為があったことが明らかにされる点だ。祥子は子連れで離婚経験のある夫(ピエール瀧)の再婚相手であり、血の繋がらない子を自分の子とするプレッシャーから、自分の境遇を不幸に感じ、幸福な家庭に見えた野々宮夫妻への「復讐」から行った作為である、と法廷で語られる。

    後半、週末の「子の交換」(交換お泊り会)が始まる。慶多はにぎやかでおおらかな斎木家で、のびのびと楽しく生活する。一方、琉晴は父不在の野々宮家で退屈な週末を送る。大企業でエリートビジネスマンとして働く良多には、家庭を省みる余裕が無い。みどりは寂しさを紛らわすかのように、斎木ゆかりと電話で会話することを心の支えとする。週末のみの「交換」を終え、本格的に「交換後の生活」を送りながら、ようやく良多は自分が「父に成れていない」ことを知る。琉晴は「新しい」両親を「パパ、ママ」とよぶことに抵抗する。琉晴は家出を画策し、斎木家へ逃げる。連絡を受けた野々宮夫妻が斎木家を訪れると、斎木夫妻は「こちらでふたりとも引き取っても良い」と述べる。良多の当初の「画策」がちょうど反転するように。ある日、耐え切れなくなった良多が妻と琉晴を連れて、連絡もなしに斎木家を訪れる。雄大は驚きもせず、ジョークを交えながら「いらっしゃい」と言う。良多を見た慶多は逃げ出す――。


    大ざっぱに骨子を抜き出すならば、以上のように要約される(逃げ出した慶多へ良多がかける言葉がこの作品のクライマックスなのだろうが、これはキリスト教的「告解」とでもいうべきグロテスクな「物語り」になっており、このグロテスクさについては、後述する)。

    この作品のグロテスクさはどのように表現できるだろうか。じゅうらいのホラー・スプラッタ・コメディは、顔かたちの整った女優の腹部を裂いてみると、そこにあるのは現実世界ではめったに見ることのない、混沌とした内臓のうねりだった、という古典的〈中心/周縁〉図式(ないし〈サンボリック/セミオティック〉図式)に則ったもので、そこでの観客は、上映中には「グロテスクな」「生々しい」血みどろの内臓を目の当たりにし、あたかも絶叫マシン的なアトラクションにワーキャー騒いでいればよく、映画館の明かりが灯れば、またふたたびコスモス(秩序)に覆われた日常に帰ることができる。むしろこのようなコスモスは、スプラッタ映画的な「祭り」「祭事」「祝祭」の後に生成されるのであり、スプラッタ映画や遊園地のアトラクションに求められるものは強度である(ボードリヤール)。祝祭は徹底的に人工物でありながら、そして人工物としての精密度をたえず向上させながら、日常のコスモスを支える政治的テクネーである(ハイデガー)。その意味で、スプラッタ映画は「グロテスク」とカギ括弧付きで形容されなければならない。このように無害で陳腐なものであるから、我々は安心してそれらを楽しむことができる。

    これに対し、「そして父になる」が表現する無意識的グロテスクは、顔かたちの整った女優の腹を裂いてみたら、そこにあるのはまるでお弁当箱のように仕切り・区切られて整った、日常のコスモスよりもはるかに整理整頓された綺麗な秩序であった――このようなグロテスクさだ。この場合は日常の側のコスモスがおびやかされるため、カギ括弧をはずして形容されねばならない。

    その「腹の中」にあるものは、いうまでもなく、あの悪名高きエディプス・コンプレックスにほかならない。フロイト以降、さまざまな「コンプレックス」が発明されたが――「コンプレックス」とは情動と観念の複合体のことだ――精神分析的に重要なものはエディプス・コンプレックスだけだといっても過言ではない。なにしろ性別を問わず、年齢を問わず、ありとあらゆる精神を分析できるスーパー理論がエディプス・コンプレックスなのだから。このことに異議を唱える論者は古今東西無数にいたが、そのような異議自体が精神分析的「否認」なのであって、それ自体がエディプス・コンプレックスの「正しさ」を証明している――と精神分析家なら言うであろう(ぼく自身は精神分析家ではないが、精神分析から自由であるとまで思いあがってはいない)。

    ただし、と留保がつく。フロイトやラカンのモデルはことごとく「理念型」であって、彼らが想定した精神病とは「理想的に狂った狂人」に当てはまる事態である。当然ながら、そのような理念そのものは現実の世界には存在しないし、存在し得ない。20世紀的な精神医学を統計科学として進展させたアメリカ精神医学会のDSMを見れば良い。精神病と「診断してもらう」ためにはさまざまな条件を満たさなければならない。条件(1-a)~(1-n)のうち少なくとも2つ、条件(2-a)~(2-n)のうち少なくとも3つを満たすこと、云々。この「厳しい」条件付けは、「すべてを満たす理想的な患者などいない」ということを意味している。

    エディプス的側面を列挙してみよう。

    福山雅治演じる良多は、母親を「母さん」と呼んだことがない――「実の母親」ではないから。

    病気を見舞ったさいに良多の父は、戦後日本の擬似血縁主義を重んじる家父長らしく「いいか? 血だ(…)血が大事なんだ」と述べる――一方、帰りがけにステップマザーであるのぶ子(風吹ジュン)は「血なんてつながってなくたって、大丈夫よ。一緒に暮らしてたら情は湧くし、似てくるし……」と告げる。「私はそういうつもりで、あなたたちを育てたんだけどな~」と。

    両夫妻の弁護を請け負う良多の友人である弁護士・鈴木に良多はこう漏らす「実はなんとか子供を二人ともこっちに引き取る手段はないかって思ってて……」。鈴木が「凄いこと考えるね」と言うと「血はつながってるんだ。なんとかなるだろう」と答える――続いて鈴木が「血か。意外と古臭いんだな、お前」と答えると、「古い新しいっていう問題じゃないよ。父親っていうのはそういうもんだろ」と述べる。鈴木はこう返す「それが古いって言うんだよ。ま、お前、昔からファザコンだったからな」。

    慶多をいよいよ相手方に引き渡す、というさいに、良多は慶多に言う「これは慶多が強くなるためのミッションなんだ(…)ミッションっていうのは、慶多が強くなって、大人になるための作戦みたいなもの」――ラストシーン、慶多が良多から逃げる場面、良多はこう告白する「できそこないだったけど、パパだったんだよ(…)もうミッションなんか終わりだ!」。

    こうしたエピソードが数えきれないほどに続く。

    野々宮家と斎木家の関係も、エディプス的だ。「ホテルみたい」な豪華なマンション(野々宮家)/電気屋を営むおんぼろの家(斎木家)。子どもをキャンプに連れて行って凧あげなぞしてやったことのない良多/つねに子ども目線で子どもと楽しんでやるおおらかな雄大。エリートビジネスマンの良多と職場結婚して専業主婦になったみどり/弁当屋でパート勤めをするゆかり。「斎木家」という「場」そのものが、良多にとってのファリックマザーであり同時にエディプス王=父である(とはいえ、パターナリスティックにすぎる父であって、問題は大ありなのだが、ここでは深入りしない)。

    ブリッジとなった看護師・宮崎祥子が、ラカンの「症例エメ」、つまり「自罰パラノイア」そのものであることには呆れ返ってしまう。ただし彼女の犯罪自体は時効が成立し、法廷的法によって裁かれることには失敗してしまう。ノベライズによれば、彼女の元へは誹謗中傷の手紙が押し寄せており、日本社会的法によって裁かれるという目的には成功している。

    この作品の海外向けタイトルには"Like Father, Like Son"ということわざが使われている。「この親にしてこの子あり」とか「似たもの親子」といったほどの意味である。このことわざも、それはそれで意味深なものがあるが、日本語の「そして父になる」は、やはりグロテスクなまでに生々しい。父でなかった(成りきれなかった)ものが、成長し、父に「成る」物語なのだから――それもドゥルーズ的メタモルフォーズではなく、フロイト的な成長譚として。


    いうまでもなく、「血縁関係の親子」とは人工物であり、フィクションにすぎない。作中、DNA鑑定が出てくるが、それもフィクションに強度を与えるさらに緻密な人工物にすぎない。日本で「血縁主義」が流行したのは戦後のことであり、歴史によって錯視的にその強度が与えられた物語にすぎないし、血縁に対する情動の備給にしてもそうしたナラティブ・セラピーによって水路付けられた人工の癒やし=情動の落ち着きにすぎない。こうした諸々の人工物が生々しくもグロテスクに姿を露わにするのが宮崎祥子という看護師による作為的犯罪によっている、という点がまた皮肉である。人工物を人工的に暴き出すこと。

    「そして父になる」は、参考文献に『ねじれた絆』というノンフィクションを揚げているものの、フィクションである。『ねじれた絆』に描かれる「取り違え事件」は第二次ベビーブーム期=高度経済成長期に続出した実際の事件の一例であり、『ねじれた絆』を参考にしたフィクションも多く作られたが、基本的に「作為的」なケースはそもそも「取り違え」ではないので、「参考にした作品」にはカウントされていない(Wikipediaの編集方針によれば、だが)。「そして父になる」がグロテスクなのは、フィクション(人工物)の中に「作為」を取り入れ、なおかつ、イメージ(映像=鏡像=想像)として提出されている点による。イメージ、つまり鏡像は、本物と見分けがつかないが本物とは決定的に異なっており、かつ、そのことによって「現実に触れている実感」の強度を高める。ラカン的にいうならば。


    ぼくは心理療法家としてのトレーニングを、家族療法の分野でスタートしたが、「家族には、本質的にリジリアンスがある」と呑気にのたまう連中に対する注意を促したい。彼女らにはかかわるな。あなたのすべてが、あなたの愛する家族のすべてが、滅茶苦茶にされるだろう。ファミリーカウンセラー(家族相談士)を名乗る療法家の中で、信用してよいのは、家族療法のトレーニング以外に、ロジャーズやフロイトやエリクソンを学んだ人々だけだ。そしてこのことに付け加えて、次のことも言っておこう。この映画を、あなたの両親とともに観てはいけない。次のことに留意するのでないのならば。留意:この映画を両親と観た後で、母親の前で父親に感想を尋ねるべし。父親に次のように語らせ、母親の不機嫌を感受すべし「映画の中では、あの母親は出産後病気になっちゃったからあれだけど、本当の母親なら、やっぱり気づくものなんじゃないのかね」と。こう父が語り、母が不愉快そうな雰囲気を一瞬でも見せたならば、おそらくあなたの家庭内で、この映画が話題になることはないであろう。これが達せられたとき、「計画通り」と心の中でニヤリとすべし。


    家族療法から心理療法家としてのトレーニングを開始したぼくの観点から、この映画に登場した人々に「処方箋」を出すとすれば、次の2種類しかない。

    (1)野々宮家と斎木家の、父もしくは母を交換すること

    (2)野々宮家と斎木家と宮崎家で、父もしくは母を一定期間ごとに交換し続けること

    いずれにせよ子どもを交換してはならない。

    だが、恐ろしいことに、ぼくのこの処方箋は、採用される見込みが無い。真偽の程は定かではないが、劇中、取り違え事件にさいし、100%の家族が、子どもの交換を採用するとのことだ。


    最後に、この作品の中で、ぼくの心を打った、印象的なシーンに言及する。これはグロテスクさがないため、看過されがちだが、とてもありがちで、感受性の脆い部分を刺激する。それは、良多の妻みどりが、職場のパーティ帰りの良多に「私のこと、みんな何か言ってなかった?」と問うシーンである。良多は言葉を濁すが、職場の人々は、みどりについて、「何も言っていない」。みどりは「母親なんだから、分かるだろう、とか、波留奈さん言いそうだもん」と被害妄想ぎみに問い返す。だが、映画では、誰もみどりについて、何も言っていない(ノベライズでは、波留奈がみどりの「妄想」通りのことを言っているのだが、グロテスク・リアリティを追求するのであれば、やはり映画のように、みどりに対して職場は徹底して無関心であるべきだろう)。心配するのでもなく、責めるのでもなく、無関心。無配慮。言及なし。同じ職場での職場結婚、ということはみどり自身も高学歴のはずなのだが、職場から離脱した後、妻=母であることを選択した女性が、会社(佐藤俊樹の論を待つまでもなく、社会とは会社のことである)から無差異のものとして扱われる=扱われ得ないこと。ぼくが心理療法家として有効な(つまり、採用してもらえる、という意味だが)セラピーを行えるとしたら、こうした事態に対してのみであるかもしれない。


    このエントリ中、登場人物のセリフはノベライズ版から拾っている。映画の実際のセリフとは異なっていることがあることをお断りしておく。なお、ノベライズにおいて、琉晴が熱中するゲームは慶多と異なり、「日本の有名メーカーのもの」ではない、「古い型」だと述べられているが、映画において琉晴が熱中しているのは任天堂の名作ゲームウォッチ「ドンキーコング」である。慶多が熱中するWiiなどより、現代において、はるかに価値の高いゲームである。ゲームは、慶多と琉晴、およびみどりにとって(ノベライズで琉晴のゲームを描写するのはみどりの視点である)対象aである(みどりの場合は迂回した対象aだが、そもそも対象は迂回したものであり、そこに差異はない)。こうした細部を、映画版とノベライズ版で変更した意図を知りたいところであるが、どなたか是枝監督に聞いてくれないだろうか。



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