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    グッド・ウィル・ハンティング:社会学と貴戸理恵

    「グッド・ウィル・ハンティング」を何年ぶりかで視聴。

    ラストの記憶がまったくないので、前回ほんとうに最後まで見たのか不明。

    「カウンセラーがカウンセリングを行っているシーンがある作品シリーズ」の一環として、ストックを消費中。

    おそらく、前回見た時のぼくは、まだ完全に社会学者だった。

    社会学者は、「セラピー化社会」を批判する。

    社会を、メンタルな問題を理由に捨てようとするものを、セラピーによって包摂しようとするのが「セラピー化社会」。

    結果的に、「問題」とされる人物を「問題」と定義する社会の側に変化は起こらず、温存される。

    これを統治権力として批判するのが、俗流フーコー理論にもとづく社会学だ。

    貴戸理恵なんかに、そのカリカチュアライズ版を見ることができる。

    で、前回、その社会学者としてのぼくが、この映画をどのように見たのか、まったく記憶に無い。

    おそらく「天才的な才能を持ち合わせた、発達のアンバランスな精神障害」というステレオタイプに与するので、批判されるべきだ、などという意見を持ったのではないだろうか、と想像した上で見ていたのだが、この映画に登場するウィル(マット・デイモン)は発達障害でもアスペルガーでもないので、そのように考えたという根拠は見つからなかった。

    たぶん、ぼくの心になにも伝わってくるところがなかったのだろう。

    今回再度見なおして、つまり、今度は職業心理療法家としてのぼくから見てということだが、やはり、とくに心に響くような作品ではなかったことを確認した。


    不思議なのは、よくできた脚本で、精神の障害(ぼくは一貫してdisorderつまり「障害」という言葉を使う。医師の診断をくだされていない人物に「疾患」という言葉は使わない)へのステレオタイプにも堕することなく、セラピストとクライアントの、ある種感動的な友情を描いているのに、どうしてぼくは感動しないのだろう? ということだ。

    ぼくが療法家として活動していて、そこに、ある種典型的な、ありふれた関係の成立=カウンセリング・セッションの成立以上のものを見いだせないからだ、ということかもしれない。

    おそらく、それも事実としてあるだろう。

    しかしそれだけなら、社会学者だったぼくが見た時にも心に何も残さなかったことの説明がつかない。

    社会学者にありがちな「セラピー化社会」への反発心が起きたのなら、そのことを記憶しているはずなのだ。


    この映画に描かれているのは、社会学と臨床心理学の葛藤だ。

    ウィルがのらりくらりと饒舌に語る内容は、社会学者の語りだ。

    セラピストであるショーンは、それを「防衛」と断定し、「君がほんとうにしたいことは何なんだ」と問い詰める。こちらが臨床心理学。

    この映画は友情を描いたドラマで、最終的に和解へとアウフヘーベンするのだが、そこにうさんくささというか、この作品が持っている防衛反応を見出すことができる。

    ウィルは自分の情動と向き合うことができるようになり、そしてそれはセラピー室のそと、親友や恋心を抱いたガールフレンドによって、あるいは偶然立ち聞きしてしまうランボー教授とショーンのウィルを真剣に思う気持ちから生じた口論、といった要素によって可能になったのだが、それはつまり彼の「正論」、社会学的防衛を解除することでカタルシスへ至る。

    一方ショーンは、ウィルの成長に刺激され、妻の死という特権的できごとの重力から逃れ、新たな可能性へと向けて旅立つ。

    日本版「グッド・ウィル・ハンティング」のサブタイトルはその名も「旅立ち」だ。


    この脚本がよくできているのは、ヘーゲル的な、あるいは「アサーショントレーニング」的なといってもいいが、相手を真剣に尊重するがゆえに歩み寄ることが可能になり、最終的に「結論」が果実としてもたらされる、という弁証法的構造を備えているからだ。

    社会学と臨床心理学は、このようにして最後に抱きあう。「オレのケツassをなでるなよ」などと冗談を言い合えるほどに仲睦まじく。


    この構造がぼくの心になにも響くものを持っていないのは、このような弁証法は、精神分析学的には欺瞞でしかないからだ。

    精神分析学的に起こりうることとは、「ウィルの親友だったチャッキー(ベン・アフレック)が、自分の言葉通りにウィルの部屋を訪れたときにウィルがすでにいない、という事態に遭遇したときに、狼狽して怒り狂ったとしたらどうなるだろう?」とか「恋心を抱いたスカイラーが、じつは真の恋人とカリフォルニアへ向けて旅立ったのだとしたら、どうなるだろう?」とか「ショーンが希望を胸に旅立ったその旅客機がテロリストにハイジャックされて自爆テロの道具になったとしたらどうなるだろう?」とか「ランボー教授にとっての本当のドラマは、嫉妬に狂った彼の助手にストーキングされることだったとしたらどうなるだろう?」とか、その他もろもろだ。

    これは、精神分析学的には、反実仮想ではない。

    すべて「現実=真理」なのであり、これらが分析の対象なのだ。

    生じていない仮定を、じっさいの分析室では分析することなど、もちろんありえないが、分析しようがない(知覚可能な〈対象〉にはいまだ成っていないのだから)誤配可能性、その総体を分析しなければならない。

    分析できないものを分析するという不可能性。

    精神分析学が19~20世紀的な統計科学ではなく、「理論」でなければならない根拠もそこにある。

    理論はすべてを観察できなければならない。

    その理論自体をも。


    ぼくの療法家としての欲動も、そうした「落ち穂拾い」に向かっている。

    ウィルは、やはり数学の天才などであってはならなかった。

    数学の天才「だから」ランボー教授がきっかけとなって、彼を「救う」ことができた。

    精神分析学的な、つまり理論的な「落ち穂拾い」は、彼のような「だから」を持つきっかけさえないものを、欲望しなければならない。


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