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    NHK俳句に俳句が掲載されました(2016年11月号)

    柿

    『NHK俳句』の2016年11月号に、二句、掲載されました(8月放送分)。


    堀本裕樹選・佳作(兼題「葡萄」):

    • ベンヤミン忌葡萄のしづむ銀盥 斎藤秀雄

    夏井いつき選・佳作(兼題「稲妻」):

    • ガムランにウブドは揺らぐ稲光 斎藤秀雄

    採っていただいた選者の先生方、ありがとうございました。



    はい、じゃあ、こっから反省会だ!

    今回の二句、「ベンヤミン忌」のほうは7月22日に書いたもので、「ガムランに」のほうは8月3日に書いたものだ。

    気持ちは、よ〜くわかる。何がやりたいのか、どこに詩因を込めたつもりなのか、分かるよ、君のやりたいことは(自分なのだから当たり前じゃないかと思うかもしれないが、過去の自分は完全に他人だ、というのが僕の感覚である)。

    たぶん、散文としても読めるようなものを書きたかったんだろう。

    「切字」から離れたかったのだろう。

    というか、ぶっちゃけ、長田弘の詩集にどっぷりはまり込んでいたから、そのチューニング状態を維持したかったのだろう(これは無意識的に)。

    しかしね、それは「自分のやりたいことを、自分にだけ分かるようにやっている」だけになってしまうよ。

    「やりたいこと」をやるのはいいとして、読者を意識しなきゃ。

    この二句、たぶん、俳句をやっている人よりも、俳句のことはぜんぜん分からない、という人の方が、受け入れやすいだろうと思う。散文精神。

    でも、俳句は短歌以上に、俳句を作っている人が読む。作ってないと読めないかというと、そういうわけじゃないけど、実作する以上の勉強が必要になるんじゃないかな。その意味で、読者の多くは俳句の実作者だ、ということをもっと念頭に置いたほうがいい。


    というわけで添削だ。まず「ベンヤミン忌」の句。

    • ベンヤミン忌葡萄のしづむ銀盥 斎藤秀雄

    これの欠点は明白だ。上五(ベンヤミン忌)と下五(銀盥)の双方が体言止めになっている。致命的とまでは言わないにしても、いちおう、俳句の世界では「良くないかたち」とされている。

    されている、と言われても、なんで、と思うかもしれないが、どういうわけだか分からぬが良からぬ効果を発揮してしまうのが、このかたちだ。常に必ずそうだというわけではなくて、例えば「上五」+「中七下五」で【対句】のかたちになっているような場合は、ちゃんと響鳴するだろう。ダジャレっぽくなるけど。《夏帽子しりはかくさぬ千野帽子》(いま適当に作った)。


    【教訓】作ったときには、これ以外ない! と思ったとしても、やはり上五・下五を共に体言止めにするのは避けるのが無難。


    少し内容に踏み込もう。この句は《ベンヤミン忌》という名詞と、《葡萄のしづむ銀盥》という名詞句の【配合】の句となっている。「配合」というと、一般的には季語とそれ以外の無関連のものが、一句の中でスパークするもの、と思われているかもしれないが、そうでない句ももちろんある。この句の場合は《ベンヤミン忌》なんていう季語はないので(歳時記にある忌日季語も、季感が弱い場合は別の季語を入れて補ったりする)、この句の季語は《葡萄》ということになる(仲秋の季語)。この句では《葡萄》が遠景に引いて、《銀盥》が前に出ている。

    ヴァルター・ベンヤミンは1940年9月26日にピレネー山中で死んだ。ジャスト、仲秋(おおむね新暦の9月)。彼の死は、まさにいま我々が生きていることの原罪として、人類が永遠に負わなければならない類の事柄だ。

    これ、イメージとしてはよく分かる。《銀盥》にはなにかヨーロッパにおける祈りのような、喪のようなニュアンスが籠っている。だから、《ベンヤミン忌》と《葡萄のしづむ銀盥》が響くか、と言われれば、響く。イメージとしては。だが、この句の中で、つまり韻律として、上五(字余り)と中七+下五が響いているかと言われれば、どうにも響いていない。「《ベンヤミン忌》だね。《葡萄のしづむ銀盥》だね。そうだね。……それで?」ということになってしまう。これが、上五・下五を体言止めにしたときに生ずる「良からぬ効果」なのだ。

    ではこれを解消しよう。

    • [改作例1]銀盥に葡萄しづみぬベンヤミン忌

    なんだかこれでよいような気もしてきたけれど、いちおう、改悪例として考えた。これは、やはり語感が悪い。原因は《ベンヤミン忌》で、どうにも収まりが悪い感じがする。字余りだから悪いということではなくて、心理学用語で言う「処理流暢性」の問題だと思う。すなわち、脳が処理した頻度が低いもの=馴染みの薄いものには、新奇性は感じるが、強い不快感も生じる、という認知の問題(「処理流暢性」の問題は、分かりやすく馴染みのあるものは、間違ったことでも真実だと感じてしまう、という認知のバイアスである)。

    こういう新奇性の高い=インパクトのある言葉は、上五に持ってくるのがいちばん。というわけで:

    • [改作例2]ベンヤミン忌銀盥に葡萄しづむ

    というのが、現時点で僕がベストだと思うかたち。五七五じゃなく六六六になっているところも、「喪の作業」感があって良いように感じる。


    つぎ。「ガムランに」の句。

    • ガムランにウブドは揺らぐ稲光 斎藤秀雄

    これの欠点は、まず、「揺らぐ」という動詞が、終止形と連体形が同形であることから、「ウブドは揺らぐ」で切れているのか、「揺らぐ稲光」と続くのか、判然としない点。かと言って、

    • [改作例1]ガムランにウブド揺らぐや稲光

    のように、とってつけたような「や」を入れるのも、句のイメージにそぐわない感じがする。バリ島のウブドに対して「や」と詠嘆するかなあ、と考えると、ちょっと違和感がある。

    ガムランの中でも、地上最重低音の楽器といわれるジェゴグ(jegog)は圧巻で、それこそ村全体が「揺らぐ」と表現するのにふさわしい。でも「ジェゴグ」はあまり日本で一般的な名詞とはいえない。それにジェゴグの本場はバリ島西部ヌガラだが、僕はじつは行ったことがない。日本人にとっても、バリ島といえばクタでリゾートを楽しんで、ウブドでガムラン・コンサートを楽しむ、というのが一般的なのではないか。というわけで、「ジェゴグにヌガラは揺らぐ」ではなく「ガムランにウブドは揺らぐ」とした。

    次に、季語【稲妻】について。ここでは傍題【稲光】を使っているが、いかにも音(拍)数合わせのために「稲光」にしました、という感が漂っていて、格好悪い。

    【稲妻】は初秋の季語で、三夏の季語【雷】との違いは、音がしないところ。同時に雷鳴が鳴ったとしても、あくまでも「光」を意味しているところ。どうして「稲」の「妻」なのかというと、稲の実りと稲妻現象とのあいだに関係があると思われていたから。つまり性交のこと。稲交(イナツルミ)とも言われていた。

    ウブドは、都会的なクタとは違って、牧歌的な田園風景がひろがる農村である。個人的な感慨を言うと、僕は日本の田園風景にはあまりいい感情は抱かないけれど、それに非常によく似たウブドの田園風景には涙が出そうになるぐらいの郷愁を感じる。どうして僕個人にとってそうなのかというと、「日本の」という修飾語は、いつまでもそこから抜け出せない自分の不甲斐なさ・うだつの上がらなさの象徴だからだ。

    話を戻すと、【稲妻】はほんらい、僕の好きな季語だったはず。OneNoteの「マイ・フェイバリット俳句」のページは、歴史順でいうならトップに松尾芭蕉の《稲づまやかほのところが薄の穂》が来るぐらいだ(幽霊画のなかの、顔の部分が芒の穂で見えない、というホラー句)。泉鏡花の《稲妻に道きく女はだしかな》というのもある。

    だったら【稲妻】を堂々と使って、定型は意識しつつ、縛られないように(句またがりを使って)こうしよう:

    • [改作例2]稲妻やガムランにウブドは揺らぎ

    この場合は、ウブドに詠嘆しているのではなく、稲妻に詠嘆しているので、《や》を使っても違和感がない。

    実は「句中で切字《や》を使ったら、句末は連用形で流したほうが良い」という、俳句界の常識は、僕にとってはあまりぴんときていない。そのうち分かるようになる、という期待をこめてそうしているというだけだ。


    【教訓】定型は意識するものであって、守るものではない。


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