Entries

    われなきところでわれ思う

    10月2日(日)の朗読会まで、あと三週間ぐらいになってしまった。一昨年の朗読会、去年の朗読会のとき、その三週間前にはどういう状態だったんだろう、と思い出そうとするんだけど、思い出せない。もう少し自信があったかなあ。分からない。でも、ひたすら練習すれば、きっとうまくいくだろう、というような感覚はあったような気がする。覚えているのは、僕の考え方として、本番で100のことをやろうとしない。練習でやっていることの、70ぐらいを本番でやれば、うまくいった、といえる状態にしておく。というようなことを考えていて、今でもそれが理想だと思っている。ようは本番では何があるかわからないから、30ぐらいの余白というか、遊びの部分を残しておくのがベターで、100を目指してしまうと、1のミスが渾身の大ダメージになってしまうじゃないですか。人前で緊張してしまう、という人にもいくつかタイプがあるのですが、1のミスが渾身の大ダメージになってしまうタイプの人(つまり100をやろうとする人)はけっこう多いのですね。逆に、私は緊張しませんとか、私は図太い神経で本番に強いんです、という人もけっこういて、本番で100やろうとして110できちゃいました、といちいち宣言してくるのだけど、このタイプの人は、実際に100とか110とかができているというよりは、結果に対する自己満足補正が強い傾向にあると思う。これはタイムを競う系のスポーツ選手には当てはまらないですけれど。自己補正が強い人は、たぶん50でも60でも、110でした、と思えてしまう。

    なんでこういうことを今考えているかというと、あまり良い練習ができていないからですね。なんというか、どう読みたいか、というイメージだけは、はっきりしているのだけど、それが音になって聞こえてこないので、そこにどう近づけばいいのか、というのがまるで見えてこない。これまでの練習というのは、まず、こう読みたい、というイメージから、じゃあこういう音を出せばよいんだろうな、という音が、頭の中で鳴る(これが大事)。それに近づけようとマイクに向かって声を出す。CDに焼いて、オーバーラッピング練習をしながら、ここはちょっと違うな、という部分に修正をかけていく、という小さな反復を重ねる、というのが、僕の練習のスタイルです。ちなみに最近はSONYのPCV80Uというマイクを使ってます。USB接続で、楽だし、軽いので。

    長田弘の『言葉殺人事件』(1977年)という詩集から、3篇の詩を読みます。ただし、典拠は2015年の『長田弘全詩集』になります。『言葉殺人事件』は、Nursery Rhyme(マザー・グース)を主要な「元ネタ」としつつ(「誰が駒鳥を殺したか」という詩まである! そう、日本でも有名な、「クックロビン」で、その「長田バージョン」です)、古今東西の様々な韻文・詩・諺・慣用句をカットアップ・サンプリング・リミックスした(言い方が古いかな? 今風に言えば、マッシュアップ?)、遊び心に満ちた詩集である。イラストレーションにはメキシコ人のホセ・グアダルーペ・ポサダのリトグラフが使われていて、カラッと乾いた陽気なラテン系の骸骨たちが、なんともチャーミングで、詩集の行間から、バンジョーのカラカラいう音が聴こえてきそうだ。ただ、『言葉殺人事件』の初出と、『長田弘全詩集』に所収のものでは、多くの点が違っている。意味が根本的に変わるところは、たぶん、少ないとは思うけれど(すべてをチェックしてはいない)、目立つところだと、タイトルが違う。初出では「バラード」とされている部分が、『全詩集』だと「バラッド」になっている。ハルキ文庫から2003年に出ている『長田弘詩集』というアンソロジーがあって、それもまだタイトルしかチェックしていないのだけど、そこではまだ「バラード」のまま。ということは、長田は晩年まで、自作のブラッシュアップに余念がなかったというか、偉いなあと思う。吟遊詩人・長田の詩のタイトルは、「バラッド」にして正解だと思う。

    『全詩集』は(読んだ人は分かると思うけど)、『全詩・集』ではなく、『全・詩集』なので、長田の書いた詩をコンプリートしたものではない。もしコンプリートするなら、これまでにブラッシュアップした前のバージョンも掲載するべきだろう。そういうものは、いずれ出るのかもしれない。気になるのは、『全詩集』に収めるにあたって、削除したものがある点だ。たとえば『メランコリックな怪物』の「黙秘」など。ラカン的に言えば(ラカンを持ち出すのは、唐突に見えて、じつはそうでもない。「バラッド第一番」にはラカンからの引用がある)、検閲することによって、事後的に、それまでは大した意味も持っていなかったものが、致命的な意味を持ってしまう(記者会見場にゲルニカか何かのレプリカが飾ってあって、それを暗示と取られかねないから幕で覆うように指示したところ、じっさいに視聴者は「隠されたゲルニカ」を暗示と受取った、みたいな話をジジェクがしていたよね)。『長田弘全詩集』という本は、これ自体が一冊の新しい詩集、長田弘による「完全新バージョンの長田弘」、として読まれるべきではないだろうか。おそらく長田は、「隠すことによって意味を持たせる」という点にさえ、意識を働かせている。



    長田
    関連記事
    スポンサーサイト
    この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
    http://orangeprose.blog.fc2.com/tb.php/2030-91d54944

    トラックバック

    コメント

    コメントの投稿

    コメントの投稿
    管理者にだけ表示を許可する

    Appendix

    counter

    FC2ブログ

    ブログ

    リコメンド




    ノートンインターネットセキュリティ


    ブログランキング

    QRコード

    QR

    メールで更新を受け取る



    提供:PINGOO!

    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる