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    [書評]スティーヴ・エリクソン『きみを夢みて』

    asahi

    スティーヴ・エリクソンの9作目の小説は、残響によって生じるマジックに満ちている。

    目に見えない、言葉と言葉、歴史と歴史を結ぶハイパーリンクの網目が、縦横無尽に錯綜するこの小説をレビューすることは難しい。

    例によって、小説を4等分しよう。

    第1幕・第2幕前半・第2幕後半・第3幕――という3幕構成(実質、4幕構成)で捉えてみよう。

    (以下、*印の注釈は、翻訳者によるもの)

    第1幕。出発点となる、ロサンジェルス編。

    ロサンジェルスでリーマン・ショックを体験した、アレグザンダー・ノルドック(愛称は「ザン」)、妻のヴィヴ、12歳の息子パーカー、エチオピアの孤児院からやってきた4歳の養子シバ(本名は「ゼマ」)、獰猛な飼い犬「ピラニア」。

    彼らの漂泊と迷子と再生、これがこの小説のベースとなる。

    この小説の第1幕は、ノルドック一家が、アメリカという危機を、なんとか乗り切ろうとしているところに、ロンドン大学からザンへ招聘状が届き、これをチャンスに結びつけようとするところで終わる。

    この招聘状を書いたのは、ジェイムズ・ウィルキー・ブラウン、といっても白人の英国人ジャーナリストだが、ヴィヴの「元カレ」からだ。

    この家族小説をとても魅力的なものにしているのは、なんといっても、エチオピアからやってきた4歳のグラムロッカー少女の貢献が大きい。

    シバ(しつこいようだが本名は「ゼマ」)は、シバ周波数で遠くの(あるいは過去の、あるいは未来の)ラジオ局を受信する。

    彼女の体からは、ハーモニクス(倍音)が響く。

    ザンは彼女を「ラジオ・エチオピア」とよぶ。

    ザンは渓谷にある小さなラジオ局(許可も得ていないプライベートなものだが)のパーソナリティをしている。

    シバは、この半径800メートルしか電波が届かない放送を、世界のどこにいても受信できる。

    翌日、ラジオ局で(週四回、三時間の音楽番組を担当している)、ザンが、最初のセットのあとで述べる。「サム・クック(*R&Bの代表的な黒人シンガー。一九六四年の曲に「変化がやってくる A Change Is Gonna Come」がある)のレコード――最高にご機嫌なナンバーだ――こそ、昨夜起こったことを先取りしていたんじゃないか。というのも、あの歌が発表されてから四十五年も経って……あの歌が言っているのは、変化がやってくる、ってことだけだし。もっとも、すばやくってわけじゃないが」。あの歌がB面でリリースされるまでに、彼は訳ありの事情で、ロサンジェルスのモーテルで殺されてしまった。

    (略)

    一日だけの英雄になるはずの、ベルリンの壁の恋人たちにまつわる本当に保守的な曲――「ベルリンの壁って何、パパ?」――とは? それは四歳になる私のエチオピア人の娘向けだ。彼女は、まだ着飾った英国人の宇宙飛行士のことを知らない」(9~10頁)

    「昨夜起こったこと」というのは、もちろん、2008年の大統領選挙のことだ。

    シバはデヴィッド・ボウイが大好きだが、たぶん、いまのところ、「ベルリン三部作」の数年前のボウイ――着飾った英国人の宇宙飛行士――の曲には馴染みがないのかもしれない。

    ヴィヴは写真家で、アーティストだが、デヴィッド・ボウイの写真も撮ったことがある。

    (…)シバが大好きで、ヴィヴもかつて若い頃大好きだった赤毛のグラムロックの歌手(*デヴィッド・ボウイ)(このことで、ヴィヴは保守的な西部の十代の若者たちのあいだで変人扱いされた)の写真も。「本当に赤毛だったの?」と、シバは母親から撮影のさいの話を聞いてうっとりする。

    「昔ほど赤くはなかった」と、ヴィヴ。

    「いい人だった?」

    「とってもいい人だった」と、ヴィヴが答える。「実際、それ以上ないくらいに。とってもチャーミングで、慈悲深かった」

    「この人、慈悲って言ったの?」。少女は驚いて訊いた。ときたまシバは食事の席で、慈悲という言葉を言うのを好んだ。パーカーの見立てでは、ほかでもない神の気をひくために、だ。(26-27頁、*印の注釈は、翻訳者)

    ザンは作家だが、最後の小説から14年たっており、また、大学の教員をやめさせられたばかりで、そのことは彼に、アメリカの景気後退を他のアメリカ人よりも一足早く感じとらせた。

    財政悪化のどつぼにはまった。新聞の一面記事や、毎日のように掲載される、国が負債や抵当物受け戻し権喪失の手続きで破綻するといった記事は、まるでノルドック家の個人的な日記のようだ。ザンは銀行に住宅ローンの変更手続きを申請したが、支払いが継続中であるという理由で、断られた。二度目の申請は、その銀行が別の銀行に乗っ取られる一週間前に、断られた。(28頁)

    ザンは、誰にも、今現在、新しい小説を執筆中であることを教えていないが、この小説の中で、エコー・リヴァーブ・ディレイを響かせる共鳴板のひとつは、この「小説内小説」だ。

    ザンはこの小説の主人公、アメリカ人の白人中年男性である小説家に、「X」という名前をつける。

    Xはベルリンの路上で、ネオナチの若者たちに暴力をふるわれ、気絶する。そこへ、若い黒人女性が駆け寄る。彼女はXのそばにボロボロのペーパーバックを置き忘れたまま、逃げる。地下鉄の駅で、彼女は、そのペーパーバックを男のそばに忘れてきたことに気づく。葛藤。取りに戻る。しかし不思議な事に、ペーパーバックの冒頭の、白紙のページが何者かに破られていることに気づく。

    ザンがこのパートを書いたときには、そこにそもそも何が記されていたのか、分かってはいない。

    主人公Xが目を覚ますと、そこは1919年のベルリンだった。

    主人公Xは、黒人の少女が置き忘れたペーパーバック――ジョイスの『ユリシーズ』、つまりすべての20世紀文学のお手本――が、彼が迷い込んだ1919年においては、出版の3年前であることに気づく(もしかしたらスティーヴ・エリクソンは気づいていなかったのかもしれないが、『ユリシーズ』の一部は1918年から雑誌に連載されている)。

    主人公Xは、未来の小説の剽窃を企てる。

    第1幕も終わりに近づいたところで、猛犬「ピラニア」が逃亡してしまう。このことは、何を暗示しているのだろうか。

    この小説の第2幕前半は、ノルドック一家がロンドンへ、ただしヴィヴだけは、エチオピアのアジスアベバに向かうところから始まる。

    ヴィヴはシバを産んだ母親を探す努力をしていて、アジスアベバのジャーナリストを雇い、情報を集めていた。しかし、届く情報は、彼女をうんざりさせるものだった。

    シバの母親は逮捕されたか、もっと不吉な状況にいるか。

    さらに、シバの祖母にノルドック家が送金していたことで、司法当局から人身売買の疑いがかけられている可能性がある、と。

    ザンたちノルドック一家は、モリーというエチオピアの血をひく女性と、不思議なかたちで出会う。

    彼女は、ヴィヴがいないロンドンにおける子守として雇われる。

    『ユリシーズ』の主人公の妻の名「モリー」と、ここでもエコーが起きる。

    ザンのロンドン大学での講義のタイトルは「二十一世紀の衰退に直面する文学形式としての小説」。J・ウィルキー・ブラウンが指定した演題であるが。

    実のところ、とザンは続けて説明する。オリジナルの物語は、〈マタイ〉ではなく、〈マルコ〉だ、と。「〈マルコ〉が最初に書かれた版であり」と、ザンは言う。「明らかに最も飾り気なくすっきりしている」。主人公の神性について基本的な教義となるものに対して、間接的にしか触れなかった。物語のクライマックスで、主人公は死から生き返るが――「現代小説におけるゾンビ現象の先駆者です」と、ザンは指摘する――それは、後世の版に比べれば、興味を引き起こさない。(略)

    歴史家マルコは、あれこれ考えをめぐらすことはなく、事実をできるだけ正確に報告しようとする。そこにマタイがやってきて、たぶんあれこれ考えをめぐらし、マルコの版を書き換える。

    そこで、歴史が歴史小説に変化する。(略)

    その後、〈ルカ〉がマタイを書き換える。それから、〈ヨハネ〉がそれらすべてを書き換える。「ヨハネの版で」と、ザンは言う。「われわれは、実験小説の出現を目撃します」。(148~149頁)

    マタイ、マルコ、ルカを書き換えたヨハネの福音書に関して、ザンは十日ほど前にロンドンの大学で講義した。いまはずっと前のことに思えるが、「歴史のノベライゼーションは、歴史に取って代わる」と。ヨハネの語りは、他のすべての版を排除することを意味する。歴史から、その音楽を聴く耳を持たない人々を追放することを意味する。音楽を聴く耳を持たない罪に比べれば、その他の罪など取るに足らないと宣言することを意味する。(…)ヨハネの小説からは、もう一歩しか残っていない。〈ヨハネの黙示録〉。「それは小説ではなく」と、ザンは講演で述べる。「レイヴだ」(284~285頁)

    ハンプトン・コートの有名な300年前の迷路で、シバが迷子になることは、何を暗示しているのだろうか。

    ザンとモリーは、迷子になったシバをほとんど同時に見つけるが、シバが駆け寄ったのは、モリーだった。このことは、何を暗示しているのだろうか。

    第2幕前半は、ヴィヴと音信不通になり、シバを連れたモリーが行方不明になる、という絶体絶命のピンチによってクライマックスを迎える。

    パーカーがネットサーフィンをしていると、掲示板にヴィヴが掲載したとおぼしき、ヴィヴが写った写真を発見する。

    写っている場所は、ベルリンのブランデンブルク門だ。

    第2幕後半は、ジャスミンのストーリー。

    この小説が一本調子の家族小説、メロドラマになっていないとすれば、ザンとジャスミンの、それぞれの歴史が分厚く描かれているからだ。

    ザンは40年前、すなわちロバート・ケネディが暗殺された1968年に、ジャスミンと奇妙なかたちで「すれ違い」をしている。

    それから、群衆の波に飲み込まれ、踏みつけられたり、押しつぶされたりしたが、一本の手が、若い女性の黒い手が、空から伸びてきて、ザンはそれをつかんだ。(71頁)

    第3幕、すなわちラストは、奔流のようにノルドック・ファミリーを渦に巻き込み、結合させる。

    エコー。リヴァーブ。ディレイ。

    スティーヴ・エリクソンの9作目の小説は、残響によって生じるマジックに満ちている。

    たとえば、小説冒頭で、2008年の選挙戦で勝利した大統領のニュースが、テレビから流れてくる。この小説(三人称で書かれている)は、主人公のザンをこう描写している。

    テレビに映っているのは、ある若い黒人女性。公園の芝生の上に膝から崩れ落ち、顔を両手で覆っている。ザンは思案する。中年の白人男性であるオレには、顔を手で覆って喜びを表す権利があるのだろうか、と。ザンは、ない、と結論する。それでも、ともかく無言で、顔を両手で覆い、すすり泣きみたいな陳腐な表現しかできない自分を恥ずかしく感じる。(8頁)

    ジャスミンは、ロバート・フランシス・”ボビー”・ケネディが暗殺された後、ロバートの遺体をワシントンに運ぶ汽車に乗っている。

    ある若い女性が草の上にひざまずき、両手に顔を埋める前を汽車が通りすぎたとき、ジャスミンは、よその国からやってきて、彼らの背負ってきたものを背負っていない自分に、両手で顔を覆う権利があるのか、と思案する。それから、いや、ない、と結論づけ、顔を背ける。(269頁)

    記憶。歴史。過去から未来に、あるいは未来から過去に、あるいはフィクションの中に、あるいはフィクションの中から、影響を及ぼす残響。

    ノルドック一家が迷子になり漂泊する現在。

    40年前のキング牧師の暗殺と、ロバート・ケネディの暗殺(また、それに先立つジョン・F・ケネディの暗殺)。

    70年代のベルリン(デヴィッド・ボウイも登場する)。

    小説内小説の主人公Xがタイムトラベルする1919年のベルリン。

    モリーがまだ10代だった頃のベルリン。

    などなど、これらを共鳴板として、エコーが響き渡る。

    縦横無尽にリンクが貼られる。

    まるで、ハイパーリンクを仕込むことができない紙の上の活字の、その見えない裏側に、言葉のリンクが狐火のように青白く飛び交っているように見える。

    ヴィヴが初めてアジスアベバに行ったときのことだ。孤児院から新しい娘を受け取り、夜にホテルのベッドに横になり、隣に幼児の存在を感じていると、開け放たれた窓からサックスの音色が聞こえてきたのだった。

    それはエチオピアのどこでも耳にする歌の一節だった。後日、ザンは自身のラジオ番組でかけた。〈テゼタ〉――意味は記憶、ノスタルジア、想い出、あるいは哀愁だが――は、タイトルというより、ブルースのような音楽の一ジャンルである。記憶がブルースの婉曲表現になっているこの土地で、この絡みつくようなメロディは、サックスだろうとピアノだろうと、ヴィヴの耳につねに同じように聞こえてきた。いわば、目というより、耳に入ってくる煙だった。そばに寝ている女の子が、確かにヴィヴがいることを確かめようとして、ヴィヴの体の線に沿って指を滑らせたとき、その指はヴィヴにとって煙のように感じられた。(285~286頁)

    この小説は、音楽に満ちている。

    とくに、60~70年代のポップミュージックに。

    読者はあらかじめ、それらの音楽に精通している必要があるだろうか。

    さしあたり、

    • サム・クックの「変化がやってくる」A Change Is Gonnna Come「僕は知っている、変化がやってくるってことを」
    • ヴァン・モリソンの「きみを夢みて」These Dreams of You(アルバム”Moondance”)「レイ・チャールズは撃たれた/でも立ち上がってベストを尽くした」
    • デヴィッド・ボウイの「ヒーローズ」Heroes(アルバム”Heroes”)…ベルリンの壁の恋人たちの歌
    • デヴィッド・ボウイの「いつも同じ車で」Always Crashing in the Same Car(アルバム”Low”)「ジャスミン、君が覗き見しているのを見たよ」

    をYouTubeで検索してみるだけで充分ではないだろうか。

    小説を読みながらでも、一度読み終えてからでも。

    ジャスミンの物語、つまり第二幕後半には、ロバート・ケネディとデヴィッド・ボウイという、実在の人物が登場する。

    この小説が描くデヴィッド・ボウイはとてもチャーミングだから、ファンは楽しめるだろうし、ファンでないならファンになるだろう。

    デヴィッド・ボウイが「ベルリン三部作」を制作したときの相棒、ブライアン・イーノは〈教授〉というニックネームで登場する。

    ジェイムズ・ウィルキー・ブラウンはかつて音楽ジャーナリストだったが、1987年以降の音楽シーンはさっぱり理解できず、その道を放棄しようとしていた――という描写は、西洋のポップミュージックに精通していない日本の読者には、少し解説が必要かもしれない。

    1987年には、イギリスで(アメリカでもそうだったが)「セカンド・サマー・オブ・ラブ」という音楽シーンの革命が起きた。

    1969年のウッドストック・フェスティバルを「ファースト」と考えたときの、「セカンド」である。

    デトロイト・テクノ、シカゴ・ハウス、アシッド・ハウスがごたまぜにミックスされた、DJカルチャーの到来。

    楽器を演奏し、歌をうたう、という神格化された音楽家から、たんにレコードをミックスするDJへの、権威の移動は、それまでのポップミュージックに慣れ親しんだ人々には理解し難い出来事だった。

    エクスタシーという錠剤が、たった10年で、「陰鬱な」としか修飾されてこなかったイギリス人の国民性までも変えてしまった。

    ロンドンの若者たちは毎週末、郊外のどこか、屋外でゲリラ的に開催されるレイヴ・パーティに集った。

    イギリス議会で「クリミナル・ジャスティス・ビル(法案)」が提出されると――これは既存の法律の改正案だったが、「ビートが反復する音楽」を屋外で流すことを禁止するという、レイヴを狙い撃ちした法案だった――ヨーロッパ、イギリス、アメリカのミュージシャンや若者は、これに抗議した。

    プライマル・スクリームは"Know Your Rights"(きみの権利を知れ)というタイトルの、1982年のThe Crashの曲をカヴァーしている。

    1994年、法案は「アクト」として成立、2009年には、自宅の庭でバーベキューをして誕生日を祝っていた人々が、警察によって鎮圧された。

    2002年、東京都は、観賞用としてすら、マジックマッシュルームの販売を行うことを禁じる政令を発布した。

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