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    [書評]『感情類語辞典』は表現者、必携である。

    ボウリング

    年末になって、とんでもない本が出た。

    帯には、《小説家、脚本家、マンガ家、俳優…人間を描くあらゆる創作者にとってよき友となる、新しい「辞典」》とある。

    その通りだと思った。

    また、帯には、『三省堂国語辞典』の編集委員でお馴染みの飯間浩明氏からの推薦文がついている。

    《「その表現はありだな」。私は両眉を上げた。》

    「両眉を上げる」という表現は、どういう感情を表しているのだろうか。

    本書の【驚嘆〔英 Amazement〕】の項目の中の、《外的なシグナル》のセクションに「両眉を上げる」とある。

    飯間氏は「私は驚嘆した」と言いたいのだ。たぶん。

    【驚嘆】の《外的なシグナル》としては、他に「唇を開く」だとか「自然と笑いだす」だとか「同じことを繰り返し言う」だとか、なるほどと思える事例が列挙してある。北米文化が色濃いとはいえ。

    本書はまず第一に、キャラクター(人物)の感情を読者に(聴衆・観衆に)受け入れやすい形で伝えるためのヒントを探すのに使われうる。

    ようするに、我々は、「彼は怒りにとらわれワナワナと震えた」だとか、「彼女は心配になってソワソワし始めた」だとか、いわゆる紋切り型を使いがちなのだ。

    残念ながら、ぼくらはスティーヴ・エリクソンとかミシェル・ウェルベックとかみたいな、スーパー表現者じゃないからだ。

    そして事実として、そうした「紋切り型」は、受け手にとっては耐え難い表現である。


    あるいは、ある種の表現者たちは、「私の作品は登場人物の感情を伝えることを目的とはしていないのだ、物語の物語性だとか、構成やプロットの緻密さだとか、メタフィクションのメタメタしさだとかを用いて、読者に複雑な感情を引き起こすことを目的としているのだ」と言うかもしれない。

    仰るとおり。

    登場人物なんて、作品にとっては添え物、窓の外を通り過ぎていく風景にすぎないのかもしれない。

    でも、物語性だとか、緻密なプロットだとかに読者が感心するためには、あるいは、物語の構造がそっくりそのまま読者の心理の構造に転写されてしまうということ(これがマジックだ!)がありうるためには、その前提条件として、「読んでいて苦痛じゃない」必要がある。

    読者が感心する・観衆が何かを感じとるため、「人物描写がうっとうしくない」ということは、十分条件ではないにせよ、必要条件だ。

    表現者が伝えたい事は「物語」ないし「プロット」として構造化されている(ないし脱構造化されている)。

    決して、登場人物のうちの誰かの感情が「伝えたいこと」そのものなのではない。

    しかし、受け手がその(脱)構造化された構造(=物語・プロット)を心の深層にしっかりと受け止めるには、あるいはこう言ってよければ、受け手がその構造に「乗っかって」きてくれるためには、登場人物への共感ないし反感(ないし無関心)が必要になる。

    共感ないし反感(ないし無関心)は、目的のためのスプリングボードになる。

    もちろん、レイモンド・カーヴァーのように(ぼくが一番好きな作家だ)、登場人物たちが皆、自分が何をどう感じているのかもよくわからないまま、奇妙な構造に巻き込まれてしまい、その構造だけがぶっきらぼうに捨て置かれる、というタイプの作品を書く作家もいる。

    しかし、人は大抵の場合、自分が何をどう感じているのか、よくわかっていない。

    だからこそ、「彼は怒りに飲み込まれて肩を震わせていた」といった明確すぎて報告的な、紋切り型表現には、受け手は苦痛しか感じない。

    カーヴァーは、構造に飲み込まれてしまって自分が何を感じているのかもよくわからない、という心理状態=感情の描写に卓越している。

    ところで、「紋切り型を避ける」という目的で、本書『感情類語辞典』を使う、ということに関して、たんに新たな「紋切り型」を付け加えるだけになるのではないか、と思った方もいるだろうと思う。

    そこで第二の使用法である。

    本書の各項目(75種類の感情)は、

    • 外的なシグナル
    • 内的な感覚
    • 精神的な反応
    • 強度の、あるいは長期の感情を表すサイン
    • 隠れた感情を表すサイン

    から構成される。

    前述したように、【驚嘆】の《外的なシグナル》のひとつは「両眉を上げる」である。

    しかし、本書は、キャラクターが驚嘆したときには「彼は両眉を上げた」と書くべきだ、とは一言も言っていない。

    もしそうであれば、これが紋切り型になるに決まっている。

    本書が示唆するのは、表現を「控えめ」にすること、「メロドラマにしない」こと、である。

    例えば《内的な感覚》は強力なため、最小限の文字数で、最大限の効果を発揮してしまう。

    だから、「軽いタッチで」書くことが求められる。


    いまからぼくがここでやってみることは、本書の冒頭で著者たちがやっていることなので、本書を読めば、以下のぼくの試みを読む必要はない。

    でもじっさいにこうやってエクササイズしてみることは、本書の使い道として適したことだと思う。


    まず紋切り型で書いてみる:

    春のうららかな天気の、暖かな日だった。

    僕たちは公園に入って、桜が見える芝生の上にレジャーシートを敷いた。

    みんな明るく振る舞っているが、心の中では、緑川に宛てて届いた、差出人不明の手紙のことで、怒っていた。その手紙は、緑川を中傷するだけでなく、僕たちを仲違いさせようという明らかな悪意に満ちたものだった。

    誰もが、あの手紙を書いたのは、緑川をよく思っていない、知らない誰かだと思っていた。

    しかし、僕だけは、あの手紙の差出人が藤井であることを知っていた。藤井の意図は、よく分からなかった。でも、差出人が彼女だという事実だけは、間違いがないことだった。僕が知っている、ということを、藤井が知っているかどうかは、分からない。

    藤井の方を見ると、彼女は不安げに怯え、震えを隠そうと必死に両腕を抱きかかえていた。

    これはぼくが今、適当にでっち上げた「小説のようなもの」の断片である。

    「紋切り型で」という縛りも、なかなか難しいと感じた。

    今の文章は、報告的であるため、何が起きたのか、事実だけは伝わる。

    が、読者にとっては「だからなんなの?」である。報告的な文章を読まなければ話が先に進まないのであれば、読者にとっては苦痛でしかない。

    そもそも、話の先を理解するのに、この文章を読んでいる必要があるのか否かさえ、よくわからない。

    • 春である必然性は? →花見のシーンだから
    • 花見をする必然性は? →?
    • 公園ってどこ? →?
    • 僕たちって誰? →僕と緑川と藤井と……誰か
    • 「心の中では~怒っていた」って、言ってないのになんでわかるの?
    • 「誰もが~思っていた」って、そう全員が言ったの? 
    • 「僕」が藤井の様子から「不安げに怯え」ているのが分かるのなら、他のみんなも分かっちゃうんじゃないの?

    思いつく「ダメポイント」はこうなる。


    ところで、このシーンには、「僕ら」が登場する。にも関わらず、会話がない。

    だから、「花見」という素材と「例の手紙」という素材が、完全に分離してしまって、意味不明なぎこちない文章になっている。

    そこで、「会話に依存した」文章に書き換えてみる:

    「青山くん、あの辺にレジャーシート敷こうよ。あそこがいちばん、桜がよく見えるから」と赤井さんは芝生を指差して言った。

    「俺、ビール、ボックスで買ってきたからよ」と金森が言うと、他のメンバーから歓声が上がった。「奢りじゃないからな」と続けると、「ええ~!」という声が上がる。

    「青山、俺もシート敷くの手伝うよ。緑川さんも元気出して。まあビールでも飲んで待ってなよ」と石黒は言った。

    「私、元気よ。あんな手紙のことなんて何とも思ってないわ。それに乾杯はみんな座ってからでしょ」と緑川さんは言った。

    「違いない。乾杯はまだだ。石黒、シートのそっち側、引っ張って」と僕は言って、シートを芝生の上に広げた。藤井以外のメンバーは「乾杯はまだだ。乾杯はまだだ」と僕の口真似をしてクスクス笑った。

    僕だけは、緑川の言う「あんな手紙」の差出人が藤井であることを知っていた。藤井を見ると、不安げに怯え、震えを隠そうと必死に両腕を抱きかかえていた。

    この登場人物たちは、言葉にしすぎている。

    行動(=ジェスチャー、ボディランゲージなど)で示すべきことまで言葉にしてしまっているために、堅苦しい会話になっている。

    たとえば小説の中で、会話が重要なシーンもあるだろうし、会話がほとんどのページを占めることである種の効果を発揮している作品もある。

    しかし多くの場合、説明は簡潔であるべきだし、セリフは説明的でないべきだ。

    読者は、地の文なら耐えられることでも、人物のセリフとして読まされるのには耐えられないものだ、と考えたほうがよい。

    また、お喋りな人たちの中にいて、今の文章中の藤井だけが無口で、しかも感情を露わにしているため、もうこの物語の「事件」はここで「解決」となってしまう。


    もうひとつ、ダメパターンとして、「思考に依存した」文章に書き換えてみよう:

    僕らは代々木公園に花見に来ていた。これも、緑川に届いた例の手紙が、僕らの調和を乱そうとしていることへの、防衛反応なのだろうか。

    赤井さんがリーダーシップをとり、花見の場所を指定する。金森は自腹で18缶入りのビールを買ってきた。あとで費用を収集するのだろうけれど。こうしたみんなの行動が、その場を取り繕っているかのように見える。

    石黒は僕がレジャーシートを敷くのを手伝いながら、緑川を元気づけるようなことを言う。みんなそのことを、あたかも忘れてしまったかのように振る舞っていたのに、これで台無しだ。「そのこと」を言葉にしてはならないのだ。緑川も「気にしていない」と言うし、みんなも言う。しかし、そのように言うことが、本当は気にしているということを意味してしまう。本当に気にしていないなら、そもそも言葉にしないはずなのだから。

    僕だけは、例の手紙の差出人が藤井だということを知っている。どういうつもりで書いたのか、よく分からない。でも、みんなが怒っている。彼女は怒らせるつもりで、あれを書いたのだろうか。

    僕は藤井を何気なく観察しようとした。顔が青ざめているように見えた。彼女の呼吸が速くなっているのを、僕は感じた。彼女の身体の芯は、誰にも分からないぐらい小刻みに震え、ときどき自分を落ち着かせようと、軽く目を閉じたりしていた。

    一見して不自然なのは、「僕ら」がいるはずのシーンで、会話がないことである。

    緑川の「気にしていない」も段落を独立させずに、地の文になじませてしまっている。

    会話が重要なシーンがあるように、内省が重要になるシーンもある。

    しかし、こう言っては何だが、というか自分で書いておいて何だが、たかが仲良しグループに亀裂が入りそうだ、というだけのことに対して、この独白者は深刻になりすぎている印象がある。

    むしろ、この「事件」なんかよりも、この作品の先の展開は、主人公の孤独な内省の旅になっていきそうな予感さえある。

    そういう作品にしたいならそれでよいのだが。

    それでも、「彼女の呼吸が~僕は感じた」だとか「彼女の身体の芯は~していた」だとか、他人の内面の機微を、つまり分かるはずもないようなことまで分かったかのようにこの主人公が独白しているせいで、この作品の方向性を「パラノイア繊細少年のこじらせ日記」へと狭めてしまっている。


    と、両極端なパターンを見てきたのは、本書が「バランスをとろう」という穏当な主張をしているからだ。

    というわけで、報告少なめ(ただし細部は必要)・会話最小限・思考必要なだけ・感情についても報告的にならないように、という方針で書き直してみる:

    緑川に届いた「例の手紙」の事件からしばらくして、三月最後の日曜に、僕らは花見をすることになった。

    NHK側から代々木公園に入り、桜がよく見える芝生のあたりを、赤井が指差す。「青山くん、あそこ」と赤井は言った。

    僕はレジャーシートを赤井から受け取る。石黒がシートを敷くのを手伝う。

    「ビール、18本買ってきた」と金森は言った。「奢りじゃないからな」と付け加えると、軽くブーイングが起きる。

    みんな、「例の手紙」のことは口にしない。忘れているかのように振る舞っている。その手紙は緑川に宛てて書かれ、緑川を中傷するものだったが、なおかつ、僕らの調和に亀裂を差し込む意図を持って書かれていた。そこには明らかに悪意があった。

    石黒が僕を手伝いながら、「緑川さんも元気出して」と口走った。

    緑川はあわてて「元気よ」と言って微笑んだ。

    石黒は明らかなミスをした。本当に気にしていないことであれば、「気にしていない」と言葉にしてはならない。言葉にしたなら、「本当は気にしている」ということを意味してしまう。みんな、石黒が何も言わなかったかのように振る舞う。裁判官が判決文を卑猥な言葉に読み間違えたことを、誰もが聞かなかったかのように振る舞う法廷のように。

    僕だけは、その差出人が藤井であることを知っていた。彼女があの手紙を書くことによって、何を成し遂げようとしたのか、僕にはうまくつかめなかった。あの手紙がたんに「僕ら」を中傷することを目的としたものなら、その「僕ら」には藤井だって含まれるはずなのだから。

    僕らはシートに座ると、上着を脱いだ。藤井も一度は上着を脱いだが、少し考えてから、上着を着た。そして自分の両腕をそっとつかんだ。

    自分で「ダメパターン」を意図的に書いて、そのダメなところを直して「こうするのがいいと思うよ」とやっていると、藁人形論法でしかないと我ながら思うのだけど、本書『感情類語辞典』の言いたいことというのは、ようするに、こういうことなのだ。


    本書では75種類の感情が項目化されているのだが、アドホックな収集だと思う。

    心理学の感情研究からすると、「この感情はあの感情の派生でしょう」とか、「その感情は、これとあれの複合でしょう」とか、突っ込みたくなるところではあるけれど、アドホックなりに使いやすさは増していると思う。これ以上分割してしまうと、違いがわからなくなる、というギリギリの分割だと思う。

    とはいえ、「怒りと立腹」とか「恐怖と怯え」とか、どう違うの、と思うところもある。

    そこは、原語の英単語も掲載されているので、日本人は注意しながら使うべきかと思う。

    以下、75感情のリスト。

    • 愛情
    • 圧倒
    • あやふや
    • 安堵
    • 怒り
    • いらだち
    • 陰気
    • うぬぼれ
    • 驚き/衝撃
    • 怯え
    • 懐古
    • 葛藤
    • 悲しみ
    • 感謝
    • 気がかり
    • 危惧
    • 疑心暗鬼
    • 期待
    • 疑念
    • 希望
    • きまり悪さ
    • 驚嘆
    • 恐怖
    • 拒絶
    • 疑惑
    • 緊張
    • 苦痛
    • 屈辱
    • 屈服
    • 苦悩
    • 軽蔑
    • 激怒
    • 決意
    • 懸念
    • 嫌悪
    • 後悔
    • 好奇心
    • 幸福
    • 興奮
    • 高揚感
    • 孤独
    • 混乱
    • 罪悪感
    • 自信
    • 自信喪失
    • 自責
    • 自尊心
    • 嫉妬
    • 失望
    • 自暴自棄
    • 心配
    • 崇拝
    • 絶望
    • 羨望
    • 短気
    • 同情
    • 動揺
    • 憎しみ
    • 熱望
    • 敗北
    • 反感
    • 不安
    • 不信
    • 不本意
    • 不満
    • 平穏
    • 防衛
    • 満足
    • 無関心
    • 愉快
    • 用心
    • 欲望
    • 立腹
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