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【憂国忌】歳時記シニフィアン
- 女装して大淫婦めく憂国忌 秀雄
- 股引の輪郭ありて憂国忌 秀雄

三島由紀夫は1970(昭和45)年11月25日に亡くなっている。
先日は【芭蕉忌】【一葉忌】を取り上げたが、三島の忌日は【憂国忌】という。
【憂国忌】というぐらいだから、『憂国』をモチーフに書くのがいいのかもしれないけど、冒頭の2句は『仮面の告白』をモチーフにした。
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太宰治の『人間失格』は、本を読む人もあまり読まない人も、つまり本を読まない人を除いてみんな読んでいて、文学として認められるとか認められないとか、いろいろなことを言う。
文学として認められないという人でも、『人間失格』を読んだのが中学生のときだった、という共通事項については憚ることなく公言する傾向にある。
太宰が好きです、と公言する人も、だいたい中学生のときに読んでいる。
それは、分かるって言えば、分かる。
太宰の小説は、あまり私小説的でないものに面白いものが多く、「太宰が好き」という人の多くは、つまり、『人間失格』的でない太宰作品をこよなく愛している、ように見える。でも、『人間失格』は、中学生のときに読んでいる。
文学的には認めません、と公言する人も、『人間失格』だけは中学生のときに読んでいる。
「中学生なのだから、『人間失格』にやられるのは、当然」という観念のラインは、まあ、さっきも「分かる」と言ったように、分かるし、別にそれはいいのだ。
かねがね思っていたのは、三島の『仮面の告白』だって、若手の作家やら、若い読書好きやらが、「中学生のときに読んで、それ以来、本を読むようになった」と言っても良さそうなものではないか、ということだ。
そういう人がいないわけではないだろうけど、「『人間失格』を中学のときに」というフレーズに比べれば、ほとんど目にしない。
『仮面の告白』は、三島の「構成に対する執心」(佐伯彰一)が発揮された華麗な建築物、として扱われていて(そんな気がする)、半自叙伝的に書かれているにもかかわらず、私小説としてというより、現代文学の佳作として、いわゆる文学通のあいだで読まれているのではないか。思い過ごしかもしれないけど。
繰り返すようだけど、ぼくは『仮面の告白』こそ、中学生が「自我の目覚め」を、読書を通して経験するような、そういうテクストであろうと思うわけである。
『人間失格』が悪い、というのではないけど。同じぐらい、「そういうライン」を代表する作品だと思う。
いま「私小説」をほんのりと貶したような気がするけど、現代の文学環境において私小説ほど凋落しているものはない、というのは確かだ。
芥川賞の選考委員なんかはいまだに私小説を求めているような選評を書くけれど、まあ、読書家も批評家も、誰も望んでいないよね、私小説は。
編集者も新人賞に私小説が送られてきたら、よほど技巧的にこなれているとかでなければ、落とすと思う。
新人賞というのは、基本的には、技巧的には荒削りだけど、文学的エッセンスの部分に可能性があるとか、そういう基準で選ぶのだろうから、私小説が芥川賞の最終選考に残るのはもうありえないのではないだろうか(ぼくが知らないだけで、残ってるのかもしれないけど)。
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『人間失格』と『仮面の告白』が私小説だ、と言いたいわけではない。
そう読めるし、多くの場合そのように読まれてきたのは確かなのだけど、一言で言えば「諧謔」を含んでいる。
「自己パロディ化」というか。
このあいだの芭蕉の句で言うと〈世にふるもさらに宗祇の宿り哉〉という【時雨】の句とか(宗祇の〈世にふるもさらに時雨の宿りかな〉を踏まえているのだった)。
太宰だと『人間失格』、三島なら『仮面の告白』、村上春樹だと『ノルウェイの森』とか。
だからストレートに「これがこの作家の真の姿だ」とか思ってしまうのは、少しだけ困るというか。いや、諧謔の部分はストレートに読んでいいので、「少しだけ」なのだが。
太宰だって、「恥の多い生涯を送つてきました」と「真剣に」思っていただろうけど、「真剣にそう思っている」と報告したくて作品を書いたわけではなくて、そのように言う主人公の「ひょうきん」なふるまいを描いて、さらにそのふるまいを対象化するという諧謔が『人間失格』という作品なわけでしょう。
『ノルウェイの森』はちょっとややこしくて、まず「死とセックスは小説に描かない」という彼の有名な宣言がある(これも作品内でのことなので、「彼の」というのは語弊がある)。
で、ご承知のように『ノルウェイの森』は死とセックスに満ちた物語になっている。
これに先行して『羊をめぐる冒険』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という、隠喩によって精密に作られた建築物のような作品がある。
だから『ノルウェイの森』の死とセックスは隠喩である(小説の中に出てくる死とセックスは春樹作品だけじゃなくてすべて隠喩だし、我々の現実世界の死とセックスも同様なのだが)。
かつ、「隠喩の自己パロディ」(オブジェクトレベル)がばばーっと続いたあとで、『ノルウェイの森』の主要な幹の部分になる隠喩表現(メタレベル)が出てくる、という、複雑な作りになっている。
ところがこの「村上春樹マニアックス」とでもいうべき作品が、上下巻合わせて1000万部以上売れてしまった。
買った人がみんな読んでいるわけじゃないだろうけど、そりゃ春樹も落ち込むというものだ。
これらに比べると、『仮面の告白』はあまりそういう「事故」みたいなことからは無縁みたいに見える。
それは「諧謔が薄い」というか「諧謔だということがわかりにくい」小説だということと、関係しているのかもしれない。
諧謔の文学世界一位といえばスターン『トリストラム・シャンディ』だけど、あれはたしか、自分が孕まれる「仕込み」のシーン、つまり父親の精子が母親の卵子に旅をするところから物語が始まっている。ほんとうに人を喰った小説だ。
それに比べると、「自分が生まれたときの光景を見たことがある」という三島の出だしは、スターンにちょっと似ているのに、半分本気で受け止められているようなところがあって、まあ、三島も本気でそう信じているようなふしもあるのであれだけど、ようするに諧謔としてではなく「ベタに」読まれてきたがゆえに、「中学生ライン」でなくて文学の教科書として読まれてきてしまったのではないか。
「大学生ライン」の『レター教室』のほうがよく読まれているのかな。
三島は、いろいろと面白い。
澁澤龍彦と奥野健男とこっくりさんをしたとかいうエピソードも好きだ。
それから、彼は貴族趣味なので、俳句のような俗の文化は毛嫌いしていたそうだ。
●心に染まぬ演技がはじまった。人の目に私の演技と映るものが私にとっては本質に還ろうという要求の表われであり、人の目に自然な私と映るものこそ私の演技であるというメカニズムを、このころからおぼろげに私は理解しはじめていた。
ここなんか、まったく「ぼくそのものじゃないか!」みたいな、中学生に戻ったような感想を抱いてしまう。
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- 2015-11-26
- 詩・言葉・声
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