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    【神無月】歳時記シニフィアン

    • 神無月蝦夷の神は去らざめり 秀雄

    (雅号を斎藤秀雄に決めました。本名を別の表記にしただけですが)

    野口さんから柿をいただく

    【神無月】かみなづき 神去月 神在月 時雨月(しぐれづき) 初霜月

    旧暦十月の異称。この月、八百万の神々が出雲大社に集まり出雲以外では神がいなくなることからこの名がある。あるいは雷のない月だからとも。出雲では「神在月」という。

    (角川学芸出版編『俳句歳時記 第四版増補 冬』(角川ソフィア文庫))

    神無月(初冬) 時雨月 神有月 初霜月

    【解説】陰暦十月の異称。この月は諸国の神々が出雲の国に旅立たれるため神々が留守であるという意味である。出雲の国では「神有月」という。

    (山口青邨編『新装 俳句歳時記 冬の部』(平凡社))
    • 空狭き都に住むや神無月 夏目漱石
    • 飲食のうとましきまで時雨月 長谷川久々子
    • 風寒し破れ障子の神無月 宗鑑
    • 神主に狐つきけり神無月 高浜虚子
    • 葬人の野に曳くかげや神無月 飯田蛇笏

    この文章を書いている今日(2015年11月12日)は、陰暦の10月1日である。

    子どもの頃、国語の授業で「旧暦では10月から12月が冬」と習ったので、なんとなく俳句もそれに準じているのだろう、と思っていた。なので、旧暦の10月、つまり「神無月」になれば、きっかり今日から冬、と考えればいいのだと、漠然と思っていた。

    テレビのニュースでも旧正月のお祝いを知らせるのは新正月の翌月だし、七夕も地域によっては新暦で祭ったり旧暦でやったりしているので、大体一ヶ月ぐらいズレていると考えればよかろう、と思っていた。仙台の七夕祭は(新暦でいう)8月6日から8日に開催されるし。

    それでおおむね間違いではないのだが、ほんの少し違う。陰暦は(新暦に慣れてしまっている我々からすれば)非常にややこしく、閏月のシステムもいまだにぼくはよくわかっていない。陰暦の10月1日が、新暦の何月何日にあたるのかは、毎年違う。

    陰暦は月の満ち欠け(新月にはじまって晦(つごもり)に終わる)によって決まる。これを12回繰り返しても354日にしかならず、太陽の周りを一周するのに11日足りない。

    これに対して「立冬」とか「立春」とかは二十四節気の呼称だが、これは太陽の運行にもとづいている。

    太陽にもとづく二十四節気の季節感に、月にもとづく太陰暦がズレていく。そこで、およそ3年に1度、閏月を入れることになった。たぶん。

    これを太陰太陽暦という。「旧暦」というときは、これのことである。

    先日【立冬】【小春】の記事を書いたけれど、俳句では、そこから「冬」と考えてよいと思う。たぶん。

    この記事は、基本的にどうでもいいことを書いているということを、ご承知おき願いたい。

    陰暦と新暦(「陰暦」の対義語は「陽暦」だけど、まあ、便宜的に「陰暦と新暦」という言い方をしておこうと思う)にかんしてややこしいことになるのは、概ね、2つの点においてだろうと思う。

    ひとつめ。【神無月】を冬の季語と考えていいのか、場合によるのか。つまり「太陰太陽暦」と「二十四節気」のズレに関して。

    今年のように、【立冬】の後に【神無月】がくる場合、【神無月】は問答無用で冬の季語ということになり、なにも考えずに使える。安心。

    しかし、【立冬】は陰暦の9月下旬から10月上旬にくる。つまり【神無月】になってから、【立冬】が訪れることもある。

    「霜降(そうこう)」(=二十四節気で「立冬」のひとつ前)のうちに、つまり【秋】のあいだに【神無月】が訪れたら、うーん、どうすればいいのか。

    ま、とくに結論があってこの文章を書いているわけではないのだけど。

    ひとつの考え方としては、「その日は実際には秋かもしれないが、【神無月】という冬の季語にあたるものに出会ってしまったものは仕方がない。堂々と冬の句を詠めばよい」となろう。

    似たようなことを、たしか堀本裕樹が『芸人と俳人』(集英社)で言っていて、たとえば【ふらここ】【鞦韆(しゅうせん)】(いずれもブランコのこと)は春の季語だけど、そんなものは一年中目に入る可能性はあり、目に入ってしまったものは仕方がない。それで句を詠みたくなったら詠めばよい。ただし句帖に記録しておいて、春になってから公表するなどの工夫が必要。というようなことを言っていた気がする。

    そういえば、【昼寝】って夏の季語なんだけど、ぼくなんかは一年中昼寝しているし、というか一年を通して毎日昼寝中心の生活を送っているのであって、昼寝中心主義といってもよいのだが、昼寝忠臣蔵。こういう文章も、昼寝の合間をとらまえては、今がものを書くチャンスとばかりにチョコチョコ書いているので、「今日は11月12日」と書き始めた文章の途中から13日にすでに移行していたりする。

    そういう生活をしているぼくにとってはどうしても、あらゆるものごとの背後には【昼寝】という動かしがたい「事象の地平」が機能しているので、じゃあぼくが書く俳句はすべて夏の句になってしまうのだろうか、と考えると、夜も眠れない。

    まあ、人それぞれに「使えない季語」というのはあるだろう、と思う。

    ぼくは【昼寝】に夏の季感を感じることができない、よって昼寝の句を書けない。こともないが、季節感は薄れる。

    閑話休題。陰暦と新暦の話だった。

    ふたつめ。「太陰太陽暦と太陽暦」つまり陰暦と新暦のズレについて。

    これは単純な話だけど、なぜか新暦のカレンダーにも、陰暦の呼称が記載されていることは多い。

    ラジオ番組でも、パーソナリティが「もう師走ですね」などと言う。

    『俳句』という角川の雑誌には、毎月、カレンダーが前の方のページにあるが、11月号は【霜月(しもつき)】だった。

    これがなんでややこしいかというと、まず、【師走】も【十二月】も冬の季語だが、どちらも【歳末】感がある。

    年が明けて、今は旧暦だと師走だから【師走】を季語にして一句詠もう、という人はいない。おそらく。【師走】を使うとどうしても歳末感が出てしまう。

    【十月】は新暦の10月だから、秋の季語である。【神無月】は旧暦の10月だから、冬の季語である。

    ところが、壁に貼ってあるカレンダーにも、『俳句』の暦にも、10月のところに【神無月】とある。

    新暦で10月だけど、【神無月】と俳句の中で言ってはいけないのだろうか。

    これはおそらくダメだろう。新暦で10月は秋だから、冬の季語である【神無月】でそのときを指し示してはならない。

    悩ましいのは、新暦で11月のときにようやく【神無月】になるわけだが、神無月が終わった時は、すでに十二月である。

    そうすると、【神無月】のあとに【師走】がくる。

    旧暦11月は【霜月】なのだが、こいつの出番がなくなるではないか。

    可哀想な霜月……。旧暦の呼称で一番かっこいいと思うのだが……。

    「この記事は基本的にどうでもいいことを書く」と宣言した通り、これらのことは、どうでもいいことである。

    神無月のことを詠みたければ【神無月】を使えばよいし、霜月のことを詠みたければ【霜月】を使えばよいし、師走のことを詠みたければ【師走】を使えばよいというだけのことだ。

    どうして「どうでもいいこと」をわざわざ書いているかというと、俳句とは「どうでもいいこと」のことだからだ。

    久保田万太郎が「俳句とは、余技である」と喝破したように(小澤實の釈による)。

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