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    芥川龍之介と芥川賞

    芥川

    昨年(2014年)に引き続き、おかげさまで、今年(2015年)も、「ふくしま現代朗読会」を開催できるはこびとなりました。

    2015年、8月23日(日)13:30開演。郡山市ホテルハマツ1階ロビーにて。

    入場無料です。

    今回は芥川龍之介です。

    難しいです。読む方も体力を消耗しますが、聴く方もおそらく消耗します。あいだに休憩を入れますので、全力でかかってきてください。こちらも全力でいきます。


    読む作品は:

    • トロッコ
    • 仙人
    • 蜜柑
    • 羅生門
    • 蜘蛛の糸

    の6作品。当日はこの順番で読まれますが、これらを発表順に並べると、こうなります:


    • 1915(大正4)年:「羅生門」
    • 1916(大正5)年:「鼻」
    • 1918(大正7)年:「蜘蛛の糸」
    • 1919(大正8)年:「蜜柑」
    • 1922(大正11)年:「仙人」「トロッコ」

    1922年の「仙人」は大阪の権助の話です(李小二の「仙人」〔1916年〕とも琵琶湖の裁判官の「仙人」〔1927年〕とも異なります)。


    こうやって並べてみると、

    • 「キリシタンもの」がない
    • 初期・中期に偏っている

    という特徴がありますね(いま気づきました)。「キリシタンもの」がないという点について、個人的な見解を言うと、「朗読に向いていない」と思います。あくまでも個人的な見解ですし、朗読者の技術的な水準によっては読みこなせないとまずいのでしょうけれど(聴く側も、ラテン語だのドイツ語だのといった諸ヨーロッパ言語に通じていないとならないかと思います)。

    個人的な芥川ベスト・オブ・ベストは「神神の微笑」ですが、これも「キリシタンもの」です。今回の朗読公演会に向けて、去年の秋ぐらいに改めて読んでみましたが、音声で聴いてもこのテクストのディテールがよくわからないし、この作品の面白さは文字で読んではじめて分かる種類のものです。

    いつだったかこのブログでもこの作品について言及したことがありますが(と思って探したら、ちょっとしか言及していなかった)、パロール(音声、話し言葉)とエクリチュール(書かれたもの、書き言葉)の問題に切り込んでいく(それも非常に日本的なやり方で)スリリングな作品なので、これを朗読でできれば、それはそれで面白いと思う(そしてその朗読はあらかじめ失敗が約束されているのだ! 主人公のオルガンティノのように!)。


    読む側も聴く側も体力を消耗する、と述べましたが、予習してくると、幾分ながら、体力の消耗を抑えられます。今回読む作品に関しては、ちくま文庫版全集ですべて網羅できます。



    芥川龍之介という作家は、教科書的にいうならば、大正教養主義を体現した、主知主義的な夭折の天才であり、円本ブームによる大衆の上昇によって首を絞められ、岩波茂雄(岩波文庫)によってとどめを刺された純文学作家、ということになりましょうが、おおよそ合っていますが、半分は間違っています。

    芥川は知的というよりも、むしろ「途中で思考を諦めてしまう」者であって、ふつうであれば諦めたものは頓挫させるのに、技巧をこらして作品にしてしまう天才です。

    その意味での技巧が優れているのは間違いがない。技巧の百貨店といってもいい。

    彼がいくらヨーロッパの文学や漢文学に通じていたと言っても、そこには歴史的な必然性がなく、悪い意味で「大正的」な盲目性に貫かれていたと申せましょう。

    「蜜柑」には1919年、つまり第一次世界大戦が終わってパリ講和会議が開かれるという世界的大事件がエピソードとして挿入されていますが(芥川が目撃するのは、まさに1919年の1月に、帰省していた小娘が再び上京するシーンです)、芥川は「涜職事件」「新婦新郎」などの夕刊記事と等閑視して「平凡な記事で埋まっている」とアンニュイな俺カッコイー的なファッションメンヘラを気取っています。それは別に悪く無いですが、三・一運動や五四運動によって朝鮮・中国が意識上にのぼってくるまでの大正期日本の態度を補完するものでしょう。大正デモクラシーなどといっても、たんに大衆が対外的に帝国主義を推し進めろと日比谷焼き討ちしたというだけです。

    こうした「大衆の上昇」と芥川の死は平行していますが、どっちもどっち、と言えなくもない。

    ぼくはよく、本をよく読む女性に出会うと、村上春樹は好きかどうか尋ねるのですが、たいてい、女性は、村上春樹は嫌いますね。「しゃらくさい」という評価がたいていの場合、返ってきます。しかし、しゃらくささで言えば、芥川は春樹の比ではない。歴史性のない教養(日本の古典・西洋文学・漢文学)と小手先の技巧を凝らして、そんなに考えぬかれた結果であるわけでもない自意識の「問題」を「描いた」とされている。

    ようするに、とくに考えぬかれたわけでもないから、そんな自意識は自意識以前であって、「問題」になりえない(春樹の場合は、自意識の問題であることがあまりにも明白であるのに、自意識の問題を扱っているとばれないように、極めて主知主義的に防衛を張り巡らせている。そこがかえって「しゃらくさい」ように見えるのかもしれないけれど、世界性を持つにはあれぐらい徹底していなければならないと思う)。

    もちろん、白樺派のような頭の悪さには芥川は失笑したでしょうが、かといって芥川が思考を研ぎ澄ませたわけではない。

    ただ、技巧がすごすぎて、思考の向う側に突き抜けてしまうようなところはある。

    さっきから芥川の悪口ばかり言っているように見えるかもしれないけれど、ぼくは芥川が好きです。

    芥川は、ほとんどすべての問題を、技術の問題に還元していると思う。

    そして、それは正しい態度だと思う。

    ぼくは武者小路実篤(白樺派)が嫌いだけれど(馬鹿だから)、馬鹿でも上質の文学を書いてしまうという奇跡は起きる(『真理先生』をみよ)。

    芥川は思考を途中で放棄する。しかし、技術はまったく放棄することがなかった。芥川は、技術的に上質の文学を制作する機械であり、確実に、つまり奇跡としてではなく必然的にそうしたのである。



    ところで、芥川といえば、8月に『文藝春秋』9月号が出ます。

    ぼくもご多分に漏れず、芥川賞受賞作が掲載される号しかこんなしょーもない雑誌は買いませんが、今回は又吉直樹の「火花」が載るので、前代未聞の売上を達成するでしょう。

    『火花』をぼくはまだ読んでいないので評価はできませんが(ブックオフに並んだら買おうと思っていたら、芥川賞をサクッととってしまったので、奇しくも再来週にはさっそく読めることになってしまった)、簡単に「又吉直樹の芥川賞受賞」という事象についてぼくの見解を述べておくと:

    • 「又吉の受賞は商業主義のためだ」という批判に対して:元々、芥川龍之介賞と直木三十五賞の設立目的は雑誌の売上を伸ばすためであって批判になっていない。
    • 「芥川賞の権威が落ちてしまった」という批判に対して:上述したように、菊池寛は商業的利益のために賞を設立したのに、はじめの20年間は、新聞各社をはじめ、まったく世間の注目を浴びていなかった(戦中~戦後の中断期を含む)。転機となったのは1956年(1955年度)の石原慎太郎の受賞以降である。で、「芥川賞の権威が落ちた」どうのこうのという批判が可能になったのは(それ以前は誰も芥川賞の存在を知らなかったのだから)、石原以降である。後付けで「石原以降、芥川賞の権威が落ちた」と言うこともできるが、それ以前は誰も知らないのだから、芥川賞に権威もへったくれもないのである。1958年度には大江健三郎が受賞しているから権威があったのだろうか? そもそも大江は受賞時点ですでに有名作家だったのであり、むしろ大江の権威を芥川賞が借りてきたと言うべきだろう。「芥川賞の権威が」系の批判のオリジンを探すとすれば、庄司薫の受賞に求めるべきだ、ということになるかもしれないけれど、たぶん今の若い人は誰も知らないのだろうなあ。ミリオン売ったのに。ぼくの記憶に残っている「権威が」系批判は、村上龍の受賞のとき(1976年)のものが最大級だった(ぼくの記憶に残っているということは、80~90年代にそういう批判が繰り広げられたということだ)。しかし芥川賞受賞作を1935年の第1回から全部読んでみると、いちばん「純文学」しているのが村上龍『限りなく透明に近いブルー』である。たぶん、名前を借りてこられた芥川龍之介も、『ブルー』が一番好き、というのじゃないのかしらん。ついで1977年の池田満寿夫。これはぼくは個人的にはどうでもよろしい。1987年の池澤夏樹はどうだったんだろう。記憶に無い。この時点で、村上春樹が受賞を逃していることがわかる。ついで書きたくもないけれどなんとかとか。だいぶ飛ばしたけど、島田雅彦も受賞を逃している。1998年の平野啓一郎。ときどきこういう、アタマにはてなマークがたくさん浮かぶような怪事件が起きるのも、芥川賞の特徴である。2000年代に入ると金原ひとみ綿矢りさ。この2人の受賞は、芥川賞という賞の性質をとてもわかりやすく表していると同時に、小説の環境の変化をとてもわかりやすく表している。ぼくの知っている人だけでも、2人の(当時若かった)女性が文芸誌編集者から小説を書くことを打診されている。「若い女性が書いた」という付加価値がなければ「純文学」を売ることが不可能になっていた時期のことだ。それから阿部和重が2004年に受賞しているけれども、彼のデビューは1994年で、デビュー以来、日本の純文学を代表する作家として活躍していたわけで(もう一人が町田康だったが、町田はどういうわけか2000年に受賞している)、受賞時にも、阿部自身、困惑のコメントを残している。だいぶ長文になってしまったけれど、「芥川賞の権威」どうのこうの、と述べる人の大半が(というか全員が)本をあまり読まない人である。
    • ぼくの感想:文藝春秋社は焦り過ぎではないだろうか。ぼくなら又吉の受賞を2~3年は引っ張る。その間、又吉に書かせ続けなければならないが、あの編集者と、又吉の体力があれば、なんとかなるだろう。こんなに早く受賞させてしまったら、1回売って終わりじゃないか。もったいない。

    というのが感想であるが、おそらく文藝春秋社が急いだのは、今回出る『文藝春秋2015年9月号特装版』になんらかの付加価値を付けたかったという事情があるのかもしれない。

    なにが『特装版』なのかというと、昭和2年9月号「芥川龍之介追悼号」の復刻版とセットになっているのだ。これはすごい。

    又吉の受賞(芥川賞の候補になった時期)と、この企画の前後関係は知らないが、どちらか一方でも爆売れ間違いなしなのに、これは全力できてますな。

    文字通り「限定特装版」なので、予約しないと、たぶん、買えません。ぼくもさっそく予約しました。


    遺稿が3本と、谷崎や菊池寛の追悼文や、それから武者小路実篤や横光利一も寄稿しています。個人的には柳田国男が寄稿している「不幸なる芸術」を初出の状態で読めるのが嬉しい。


    繰り返すと、この復刻版の企画と、又吉直樹が芥川賞候補になった、という事象が、どういう関係になるのか(完全に偶然なのか――芥川賞を誰が受賞しようとも、この企画は実行されたのか)はわからない。とはいえ、通常であれば懐古趣味的でペダンチックとも言われそうな又吉直樹の作品が掲載されるタイミングは、この企画にとってベストだったのかもしれない。

    読んでないのになんで「懐古趣味的でペダンチック」だとわかるのかというと、余計な情報は事前に出来るだけ入れたくないのに、入ってきてしまうからだ。

    そしてそういう傾向が「通常であれば」批判の対象になるのに、それを行ったのが又吉直樹であれば、受容されるであろう、という文脈も、理解できる。

    ただ、上述したような、「芥川賞への毀誉褒貶」にさらされる作品というものは、村上龍の『ブルー』を挙げるまでもなく、それなりに「体力」があるはずであり(作家の体力だけでなく、作品自体にも体力というパラメータがあるだろうと思う)、作品自体が「文学環境」を創出していくような、エクリチュールの強度を備えているはずだ(石原慎太郎にしてもそうである)。はたしてそれに値する作品なのかどうか、という点については、読む前から不安はある。どうも、綿矢りさと金原ひとみの受賞と同じような文脈で(ようするに「話題作り」と言いたいのだろう)批判されているように見えてならないからだ。別にそれはそれでいいのだが(又吉がそういう批判に潰れて書けなくなったとしても、誰も困らないだろうから)、変に人を不安にさせる人物ではあるのだ。又吉直樹という作家は。

    芥川賞に過剰な期待をすべきではないのは当然なのだけれど、たとえば小川洋子なんて、受賞当時は「こんなもん箸にも棒にもかからないだろう」と(ぼくによって)思われていた作家が今ではある種「重鎮」になっていたり、多和田葉子川上弘美を輩出したり、金原と綿矢の受賞のときは「綿矢りさより金原ひとみの方がおもしろいよねー」と(ぼくによって)言われていたのに今では金原は脱原発放射脳オバサンになってしまったのに対して綿矢は淡々とオーソドックスな作品を書き続けていたり、芥川賞という一見どうでもいいものを軸に、日本文学を眺めてみるのも面白いのは確かなのだ。



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