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    朗読論(補論):朗読の理と発声の理

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    このブログで、片山ユキヲ『花もて語れ』をダシにして「朗読論」と題するシリーズを書いてきたのだが、『花もて語れ』が全13巻完結したのに、まだ2巻までの分しか書いていない。



    先月、9月20日に、初めての朗読会が成功裏に終わり(ご来場の皆様ありがとうございました)、『花もて』の13巻も出たし、そろそろ書こうかな、と思っていたところ、教室の先生がFacebookに芥川龍之介の文庫本の写真をアップしていたので「を?くるのか?あれが?いよいよ?」と思っていたら、ドンピシャそのとおり、次は「トロッコ」を読むことになった。

    ドンピシャといっても勘が冴えているとかではなく、朗読の世界では、宮沢賢治「やまなし」→芥川龍之介「トロッコ」、という流れは、トレーニング的に王道だということだ。


    芥川「トロッコ」は、『花もて語れ』だと第4巻で読まれるのだが、まだ3巻を紹介していない。そこでまず3巻をダシに何がしか論じようと思ったのだが(第3巻では斎藤隆介「花咲き山」が読まれる。朗読トレーニングという観点からみると、テーマは「セリフ」である)、書き始めたら別のテーマになってしまったので、このエントリは「補論」とすることにした。



    あらためて、この「朗読論」シリーズの目的を自分なりに定義すると、朗読にかんする暗黙知を形式知化することである。

    『花もて語れ』は全13巻ですでに完結しているので、この朗読論シリーズも13回で完結させる予定ではいるのだけれど、おそらく、朗読にかんする暗黙知の形式知化という課題は半永久的に終わることがない。


    次に教室で読む教材が「トロッコ」になったので、本棚から「トロッコ」を題材にした朗読トレーニング本を引っ張り出してきた。

    なかでも、CDで参考朗読を聴くことができる杉澤陽太郎『現代文の朗読術入門』を再読してみた。

    (杉澤『朗読術』は現時点で3巻出ていて、どれもタイトルが似通っているので、注意されたし。「トロッコ」が収録されているのはいちばん古い『入門』である)


    初読時には気づかなかったのだが、杉澤氏は本書の「まえがき」で暗黙知の形式知化について語っている。

    伊藤一刀斎という剣客は、「一境地をひらくごとに一理を樹てた。理があってこそ、万人が学ぶことができる」からだ……

    〔平田オリザ『演劇入門』で〕平田さんはこう言っています。

    「私はあえて、この本は、ハウ・ツー本だと言いきるのは、演劇を技術として語る習慣が少ない日本の演劇界の現状に対して、多少なりとも異を唱えたいという気持ちがあるからだ。だから、ここで言うハウ・ツー本とは、すなわち隠されてきた技術の蓄積の言語化だという意味だ」と。

    私は、はっとさせられました。

    (中略)

    そう思っていると、テレビから「今時の人は頭で考えるからダメ、感性だよ」などと、一芸に秀でた人の話が聞こえてきたりして、もう何だか消え入りたくなります。

    日本の芸の伝統は、面授嗣法、以心伝心、不立文字です。剣客の世界の免許皆伝のあの巻物も実はほとんど何も書いていないのだそうです。最後に師と弟子が二人だけで立ち合い、その阿吽の呼吸を共有することで伝えていくものだと言います。

    いずれにしても、芸や術を、理でとらえる、つまり、ことばで説明するのは日本では好かれません。伊藤一刀斎より、宮本武蔵の方が好きです。

    でも、と私は最近思うのです。一芸に秀でた人、一境地を拓いた人が、工夫を凝らすとき、感性だけだったのだろうか、やはり頭で真剣に考えたのではなかろうか、ということです。

    (中略)

    それを思うと、平田さんの「隠されてきた技術の蓄積の言語化」ということばの重さが私にはよくわかります。

    このような前提で、杉澤「朗読術」シリーズは書かれている。杉澤氏のような重鎮が、平田オリザなんぞのような若造に「ならって」なんていうところがすげえ、大物だなあ、とぼくなんかは思うのだけれど。

    (平田の書く「言語化」は薄っぺらすぎて使えないものが多い。『わかりあえないことから』とか。使えるハウツーものなら鴻上尚史が圧倒的に優れているし、コミュニケーションということについていうなら竹内敏晴から野口体操へ、という流れが王道ではないか)。

    なお、杉澤氏は、暗黙知の代表として宮本武蔵を、形式知の代表として伊藤(伊東)一刀斎をあげているが、武蔵は武蔵で、ちゃんと書いているのだ、あれでも(笑)。


    暗黙知から形式知へ、という努力は、日本でもなされていて、その代表格がトヨタ生産方式だ。スキルを属人化しない(誰かが欠ければ成立しない、という事態をなくす)、作業手順をドキュメント化する(暗黙の了解にしない)、あらゆる問題点を「見える化」する(「アンドン」や「5回の『なぜ』による分析」など)、といった、徹底的にムダを省く手法であり、それでいて20世紀前半に圧倒的影響力を誇った科学的管理法(テイラー主義)にもとづいたフォード生産方式に対するアンチテーゼでもあった。

    トヨタ生産方式は1980年代に世界中で注目され(「トヨタの仕事改善法」はそのままローマ字で"KAIZEN"で通じる)、MITで研究・整理されて「リーン生産方式」として整備された。「リーン(lean)」とは「贅肉を削ぎ落した」「無駄を省いた」という意味。

    いま、シリコンバレーで「リーン・スタートアップ」でないスタートアップがベンチャーキャピタルから投資を受けることは難しい(ちなみに「ベンチャー企業」というのは和製英語。「ベンチャーキャピタル」はちゃんと英語にある)。

    1990年代にはソフトウェア開発の分野で科学的管理法(テイラーの研究所にいたガントが開発した「ガントチャート」が有名だ。これにもとづいて「ウォーターフォール」で開発するのが、それまでの主流だった)に対向するものとして、「アジャイル開発手法」が主流になった。

    さっきベンチャーキャピタルからの投資、ということについて言ったけれど、アジャイルでないチームはやはり投資を受けられない(さらに技術的にはRailsでcloudでないと、という条件がつくのだが)。


    アリスター・コーバーンが書いた『アジャイルソフトウェア開発』には宮本武蔵(Musashi)についての1章がある。

    「アジャイル」ということで我々がやろうとしていることは、宮本武蔵が『五輪書』ですでに書いている、とかなんとか(半分ジョークみないなところはあるけれど)。ジョナサン・ラスマセンが書いた『アジャイルサムライ』なんて本もある(この本には武蔵は登場せずに「マスターセンセイ」という武士が出てくるんだけど)。

    他にもその名も『カンバン』なんて本も今年翻訳された(トヨタの「カンバン」も"KANBAN"で通じる)。


    なんでこんなことを長々と書いているかというと、「暗黙知主義、感性主義」みたいなものを、ぼくが心底憎んでいるからだ。

    仮に「言葉にしきれない」ものがありうるとしても、言葉をつくして、つくす努力を死に物狂いでやって、考えぬいたのでなければ、そのような感性主義はたんなる頭の悪さの発露でしかないからだ。



    ぼくがよく「バタフライのブリーフセラピー」と言っている方法がある。これはブリーフセラピーというよりブリーフコーチングに近いのだけれど。

    学生時代に、いわきの大学に通っていた友人を訪ねたときのエピソードを紹介しよう。

    彼は、小名浜の、とあるプライベートビーチで夏期アルバイトをしていた。プライベートビーチだから、海水浴客は誰もいない。勝手に海水浴をしに人が入ってこないように、管理するだけのバイトで、彼らはのんびりとヴァカンスを楽しみながら給料をもらっていた。

    暇で暇でしょうがない彼らは、海で水泳の練習をしていた。友人はバイト仲間に、ぼくを「水泳が得意なやつ」だと紹介した。友人のバイト仲間は、「バタフライだけできないんです!教えてください!」と言った。

    また、彼の注文は「概念で教えて下さい」というものだった。ぼくはこの言葉を気に入っている。おそらく「理論的に・理屈で教えて欲しい」という意味だろう。

    ぼくはまず「波にのって、好きなようにバタフライしてみて」と言って、彼の泳ぎを観察した。バタフライが「苦手だ」と主張する人の大半がそうであるように、彼もまた、息継ぎの失敗を恐れて、フォームがまったくバタフライになっていなかった。

    そこでぼくは「左半身と、右半身で、同時にクロールをするつもりで泳いでみて」と指示した。ぼくのコーチがはじまって、3分もたたないうちに、彼は完ぺきにバタフライを泳げるようになった。


    もちろん厳密に言うなら、バタフライの「正しい」フォームは、クロールを左右対称にしたものではない。だからおそらく水泳を科学的に研究しているトレーナーは、このような指示は口にしない(だろうと思う)。

    しかし、ぼくが指示した彼は、結果的にバタフライの「正しい」フォームで泳ぐことができるようになった。

    ここで何が起きているのか。

    彼の言葉で言えば「概念」がまず頭に入り、バタフライという「やっかいな」状況において、頭で身体の動きをコントロールできるようになる。コントロール感覚を得られたならば、身体と精神はさらに自由になる。この自由の感覚のもとにあるときに、はじめて「息継ぎの失敗という恐れ」から解放される。かくして、「バタフライを用いて、いかに推進力を発揮するか」という、本来集中すべきことだったことに集中できるようになる。


    ぼくが9月の朗読会で満足感を得られた、という話は、さまざまな場所でしているので、知り合いの方々は耳にタコだろうが、この話も書いておく。

    ぼくが朗読でこの「自由の感覚」を得られたのは、つい最近、8月の上旬のことである。

    7月下旬から8月上旬にかけて、ぼくは星飛雄馬のように、毎日公園にでかけて発声トレーニングをしていた。

    街中をロングブレス・ウォーキングするときも、とにかく発声しつづけた(これはこの1年ぐらい、ほぼ毎日やっていたが)。


    このときにぼくが発見しようとしていたのは、発声のための「概念」だ。

    この1年間(朗読のトレーニングをはじめたのはちょうど1年前のことだ)、あらゆる発声法のトレーニングテキストを片っ端から読んできたのだが、それぞれに「いい線いってる概念」もあるとはいえ、ピンとくるものはなかった。


    まず、ぼくの目標というか、自分の声のコンプレックスは、口腔共鳴が少ないために「こもって」聴こえる、ということだった。

    さらに、このために、「鼻声」に聴こえる、ということ(ただし鼻腔共鳴がまったくないのか、強すぎるのかは不明――とはいえ近年では鼻腔共鳴は発声にまったくなんの関係もない、ということになってきているので、やはりたんに口腔共鳴の弱さ、がポイントになる)。


    結論から言ってしまえば、声を前に出そうとせずに、喉の奥にぶつければよいということがわかった。

    いやいや、口腔共鳴って、もともとそういうことでしょ、って突っ込みが入りそうだけど、それ、だれも教えてくれなかったじゃん。

    とある本には「上の前歯と歯茎の間にうどんぐらいの穴が開いていて、そこから放物線状に前に投げるイメージ」と書いてあって、これはこれであるていど正しいのだけれど、これを意識し過ぎると、やはり「声を前に出す」だけになってしまい、口腔で共鳴してくれない。

    なんとも「もっさり」とした、基音ぐらいしか聴こえてこない、つまり倍音がまるで含まれていないかのような、重苦しい音になって口を飛び出して、相手のところに届かない。それどころか自分の耳にも届かない。

    ようはこんな感じでローパス・フィルターがかかっているような音になる。

    フィルター

    日本人の発声に多いのが、音程が微妙に高くて共鳴が少ない、というもので、これがまさにぼくの以前の発声だったのだが、「もっと高い声で」と言われるものだから、ますます音程を上げてしまう、という悪循環に陥っていた。

    発声の概念をつかんで以降、「以前より声が高くなった」とよく言われるのだけれど、じつは基音の音程自体は、下げて発声している。これは意識的にやっている。基音を下げたほうが、基音がしっかりして、共鳴も強くなる。結果的に、耳に聴こえてくる声は高く聴こえる。


    ところで、さっきから「概念」というお気に入りの言葉を使っているけれど、これを表現するのに便利な日本語がある。

    「コツ」っていう。


    (ちょっと注意事項を書いておきたいのだけれど、ここでぼくが書く「発声法」は、朗読のような日常会話言語でしか使えない。歌にはまた別のコツが必要になる。ビジネス会話では、共鳴を「消す」トレーニングが必要になる。ビジネスではオープンスペースでも可能な限り守秘義務を守る必要があるため、いわゆるチェストボイス――「いい声」と一般的にはいわれる――を「直す」ことが求められる。逆に、「指向性」を極度に高めなければならない。朗読でも単一指向性マイクを使う時にはあるていど指向性が求められるが、マイクが拾いさえすればそれでいい、という気楽さがある)


    コツを言うと(これもあちこちで言っているので知り合いは耳タコでしょうが)、「エセ・オペラポジション」「エセ・ホーミー」を練習すればよい。


    まず「♪わたしのーおはかのーまーえでー」と喉のあたりで、可能な限り低い声を出し続ける。これが共鳴しているとき、たぶんその音程が、自分が自然に(話し言葉として)出すことができる最低音程だ。これが「エセ・オペラポジション」。


    共鳴しているのが感じ取れたら、その響きを保ったまま、音程を上げていき、ホーミー「っぽい」声にする。たぶん(ファルセットを例外にするなら)自分が自然に出すことができる最高音程が、この「エセ・ホーミー」の時の声だ。


    最高音程と最低音程をつかめたら、その中間辺りで「エセ歌舞伎」「エセ能楽」をやってみる。これが余裕になったらさしあたりOK。


    普段は車を運転しながら車内がビリビリと振動するぐらいの声量で、「外郎売」いろんな節回しで繰り返す。「顔の筋肉を可能な限り大きく動かして滑舌よく」「噺家になりきって」「めちゃくちゃふざけて」「FMラジオのパーソナリティ風に」などのバリエーションで(一日のはじめは声量は無視して滑舌だけ気にしてやると、その日の発声がやりやすくなる)。


    注意点は、「本物ホーミー」になってしまうと、それで肋骨が骨折したりするので(ということは「胸部共鳴」も生じているということ)やりすぎないように。

    (いちおう、解説すると、ホーミーはモンゴル語で「喉歌」を意味し、倍音〔列〕を使って、同時に2つ以上の音程で歌われる歌唱法。YouTubeで検索されたし)

    「倍音」というのは、元になる音程=基音の周波数の、2以上の整数倍の周波数の音のことで、通常、人の肉声には必ず倍音が含まれている。楽音が出せる楽器の音にも含まれており、楽音として使われながらも倍音を含んでいないのは、正弦波(サイン波)だけである。

    たとえばピアノでいうと、中央のA(=A3;ハ長調のラ)の周波数は220Hzだが、「2以上の整数倍」だから、2倍の440Hz=A4、3倍の660Hz≒E5、4倍の880Hz=A5、5倍の1100Hz≒C#6、6倍の1320Hz≒E6……などが(理論上は)同時に鳴っているはずである。

    倍音列

    (適当に書いたので間違っているかもしれない)

    ということは、和音を知っている方ならば気づくように、Aの音を出すと、Aのトライアドコードが鳴っているということになる。さらに第7倍音まで聴こえるとAセブンス、第9倍音まで聴こえるとAセブンス・アッド・ナインスの和音が鳴っているということになる。



    話が大きく脱線したが、「朗読にかんする暗黙知の形式知化という課題は半永久的に終わることがない」というポイントから書き始めたのだった。

    この点に関して、杉澤氏は次にように述べている。

    日本では、古代から、一度も、言文一致したことがありません。特に、今私たちの手にしている現代口語文というのは、明治になって、初めこそ言文一致を目指したのでしょうが、途中からは、もっぱら欧米語の横文字を、日本語の縦に移し替えることに全力を傾けてきた、その結果生まれたものだと思います。

    (中略)

    当たり前ですが、この本が現代文を読むための決定稿であるわけがありません。それだけ、現代文と日本語の音の言葉の関係の、実践的な技術論は始まったばかりのテーマです。

    エクリチュール(書かれた文字)とフォネー(音声)、この関係に「実践的な」面から関わっている第一人者がこのように述べているぐらいだから、「書かれたものを、声に出して読む」ことは不可能に近い(ぼくはおそらく不可能だろうと思っている)。


    言文一致、ということについて言えば、明治期の言文一致運動は、日本語における言文一致の初めての試みではない。明治期のものは先例を真似たもので、それも「てにをは」のレベルを手直ししただけの安直なものだ。

    先例は万葉仮名である。

    中国から輸入した漢字の、その意味を剥奪して読みを借り、自国語の音声に流用するというアイデアは、朝鮮にすでにあったが、大和朝廷~奈良時代の日本の言文一致運動はこのアイデアをさらに流用したものだ。

    ちなみに本居宣長は、日本語表記のうち、漢字で書かれた部分、すなわち中国発祥の概念(意味)で成立している部分を「漢意(からごころ)」と呼び、仮名で書かれた部分を「やまと魂」と呼んで、仏教や儒教のような「漢意」を批判した。

    柄谷行人は、仮名は朝鮮からの輸入なのだから、日本語は「漢意(からごころ)」と「韓意(からごころ)」のハイブリッドだろうと述べている。


    欧米語(横文字)の輸入についても、カタカナ(仮名の一形態)によってジャパナイズしているのだから、ここでまさしく芥川龍之介の「神神の微笑」の問題に直結するだろう。


    ……などと書いていたら、ここで芥川龍之介につながってしまった。


    芥川でぼくがいちばん好きな作品は「神神の微笑」なのだが(一連の「キリシタンもの」が好きだ)、これは朗読には向いていない。

    「神神の微笑」の中で、日本で宣教師をしているオルガンティノのもとに、日本の霊の一人があらわれる。

    彼はオルガンティノに「デウスもこの国へ来ては、負けてしまいますよ」と言う。

    「はるばるこの国へ渡って来たのは、泥烏須ばかりではありません。孔子、孟子、荘子、――そのほか支那からは哲人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。しかも当時はこの国が、まだ生まれたばかりだったのです。支那の哲人たちは道のほかにも、呉の国の絹だの秦の国の玉だの、いろいろな物を持って来ました。いや、そう云う宝よりも尊い、霊妙な文字さえ持って来たのです。が、支那はそのために、我々を征服出来たでしょうか?」

    「ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人は大部分悉達多〔したあるた〕の教えに帰依しています。しかし我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」

    「事によると泥烏須〔デウス〕自身も、この国の土人に変るでしょう。支那や印度も変ったのです。西洋も変らなければなりません。我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。薔薇の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明りにもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。………」



    日本語は、まず漢字を用いて、中国発祥の「概念」を輸入した。しかるに、「てにをは」つまり助詞だの助動詞だのの部分は、漢字から意味を剥奪して、音だけを借用した。その万葉仮名も勝手に日本流に作り変え、仮名で「本音」を語りつつ、仮名で「概念」を補助しているようにみせかけつつ、それでいて「概念」を受け入れてはいない。カタカナで西洋語を日本流に作り変える手口も同様である。それは「西洋の真似」をしているようにみせかけつつ、本音の部分では、まったく受け入れてはいない。多重に防波堤を作って、「大和魂」が侵食されることを防衛しているのである。

    この「防衛」は、精神分析用語でいう防衛と、同義である。

    したがって、日本人は抑圧された無意識は持ち合わせていないのであり(いっさい侵食される体験をもっていないのだから)、日本人の精神分析は不可能であるということになるのだ。



    次回は『花もて語れ』第3巻を使って「セリフとはなにか?」についてなにか書こうと思う。


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