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    二次創作トレーニング:3ヶ月で小説を書く方法(Week6)

    Notes

    第6回。


    前回までの目次:


    このシリーズで元ネタにしているのは、清水良典『2週間で小説を書く!』と大塚英志『物語の体操』の2冊だけ、とこれまでも何度か述べてきた(ような気がする)。

    清水本からのレッスンの盗用は、じつは前回の「スケッチトレーニング」でほとんど終ってしまっている。清水本には2週間分のレッスン(14日分)が掲載されているが、レッスンとレッスンの間に書いてあることのほうが、はるかに有益な本だと思う。


    大塚本には第6講まであるのだが、今回のレッスンが、大塚本の第4講にあたる。

    このレッスンはWeek12まで続ける予定なのだが、そうすると、計算上、上記2冊からの盗用では数が足りないということになる。

    まあ、前回の「スケッチトレーニング」に詰め込み過ぎたのだけど。


    そのようなわけで、ちょっとネタ本を増やす予定だ。

    あらかじめ予告しておくと、渡部直己『本気で作家になりたければ漱石に学べ!』を使う。

    この本は、誰も言わない割にはけっこう画期的な本だと、私は考えているのだが、なぜだか絶版である。


    二次創作と〈世界観〉


    今回のトレーニングは「二次創作」で、つまり別の作品の〈世界観〉をそのまま使って、オリジナルの作品を書く、というトレーニングだ。

    その意味で、これもまた「パクリ」の技法の一種なのだが、すべての小説書きがこう言われてなんのことか理解できるとは限らないので(ラノベ書きや同人文学の書き手はすぐわかると思う)、まず、大塚英志『物語の体操』の第四講の要約をする。



    『物語の体操』第四講のタイトルは「村上龍になりきって小説を書く」である。

    こう書くと回れ右したくなる読者も多いとは思うのだけれど、これには必然性があるので、もう少しお付き合いいただきたい(このレッスンで元ネタにするのは村上龍ではないので安心してよい)。


    大塚はなぜ「村上龍」という作家を突然持ち出してくるのか。

    これは単純に、現在の書き手に必要な技術を、すべて兼ね備えている現役の作家が村上龍ただひとりだからだ。

    大塚は文芸誌での評論で、村上龍を「サブ・カル的手口」「幻冬舎文学」と揶揄する一方で、専門学校での自分の生徒には村上龍の小説をかたっぱしから読ませて参考にするように指導するという。

    前者の揶揄は、「文学」がこれでよいのか、という批判であるが、一方で、「小説」らしきモノをなんとか書きたいと願う生徒たちには非常に良い教材だ、というわけだ。


    村上龍がぼくにとって興味深いのは彼の中で小説を書くという行為が奇妙に「分化」している点にあります。その「分化」の仕方、ベクトルの向きは多分まんがの創作技術の「分化」の仕方と似かよっています。しかし「分化」させながらその一つだけを特化して持っているのではなくて「分化」させつつ必要な技術は一通りきっちりと揃っているというのが村上龍に対するぼくの印象です。しかも村上龍は「分化」した小説技術の一つ一つを徹底してマニュアル化し方法として洗練させ(言い方を変えれば「手口」化させ)、その上で、それらを再統合して一つの小説を作り上げていくという印象があるのです。技術が個別化し特化していく、という小説がたどりうるかも知れない運命を先回りし、そして、それはそれでテクニックとして具体化し、その上で小説という「全体」にきっちりと収斂させているというのが、だからぼくの村上龍への評価でもあります。


    「文学」の文脈で村上龍を読んできた方であれば「これは、誰についての評なんだろう?」と思うかもしれない。

    たしかに村上龍は、「テーマ性」を拒否する日本文壇に抵抗してさまざまなテーマに取組み、かつ「物語性」を拒否する日本文壇に抵抗して物語を重視し、そしてなにより多作である。発表媒体も節操がない。

    その意味で、文壇的文芸(文学)的なものからは距離をとっているように見えるし、「SFのできそこない」みたいな内容になることもあるし、エンターテイメント性に偏りすぎて「純文学っぽく」ない、ように見える。

    だけど、結局、村上龍の小説を成立させているのって、粘着質の文体であり、細部へのフェティッシュな欲望であり、テーマとか物語とかジャンルとかを食い破るような《エクリチュールの強度》だよね――というのが、「文学」の文脈での村上龍の読まれ方だったし、これからもそうだろう。

    かくいう私もこの「読み」でしか村上龍を読んだことがないし、読むことができない。

    本音を言えば、大塚英志の「読み」は、あまりにも自分が関わっている分野にひきつけ過ぎだし、そのように読んだからといってマンガやラノベやアニメやゲーム(ようするにサブカルチャー)以外になにか貢献できるとは思えない。


    じゃあ、なんでその共感できない大塚英志の読みを、ここで採用するのかといえば、『ヒュウガ・ウィルス』にかんしては、この読みでなければ評価することができないからだ。


    『物語の体操』を未読の方もいるかもしれないから、もう少し詳しく説明する。本書第二講のタイトルは「とりあえず『盗作』してみよう」である。この講義を盗用したのがこのシリーズのWeek3と4である。

    第二講の中で、『コインロッカー・ベイビーズ』と『五分後の世界』をまず「要約」し、そのプロットの骨組みをまるごと盗用して、設定だけを変え、オリジナルの「プロット」を書いてみよう、という課題がある。

    保坂和志やポール・オースターや島田雅彦も読ませて同様の試みをしてみましたが、提出された課題のレベルは圧倒的に村上龍を素材にした回が高かったのも事実です。つまり村上龍はとても「盗作」しやすい小説を書くことに優れている、といえます。

    この部分を読んだ時には「ふうん、そんなもんかなあ」としか思わなかったのだけれど、第四講で『ヒュウガ・ウイルス』を高く(?)評価しているのを読んだときに、私の目の鱗が落ちたのだ。


    『ヒュウガ・ウイルス』は、1996年に書かれて(たしか20日間で書き上げている)出版された、『五分後の世界II』である。1993年に多田富雄『免疫の意味論』が話題になり、ついで1995年、瀬名秀明『パラサイト・イヴ』が大ヒットした。当時、村上龍と浅田彰との対談で「『パラサイト・イヴ』はアニミズムにすぎない。免疫は無意味だから面白いのに『意味論』にしてしまってはつまらない」という点において二人が意気投合しているのを読んで、私は『ヒュウガ・ウイルス』に過剰な期待をしてしまった。

    読んでみたら、なんのことはない、「致死的なウィルスのパンデミックを(ここまでは面白い)、気合で克服する(ここでずっこける)」という「しょうもない話」でがっかりした記憶がある(これであってるよね? 再読していないので記憶に自信はない)。

    なんであんなにつまんない作品を大塚はとりあげるのか?

    個人的な話だが、さいきん読んだ、数研出版の『国語便覧』(高校で配られる、国文学史をまとめたあれ)の現代文の年表で、『ヒュウガ・ウイルス』が村上龍の代表作としてあげられていた。表紙のカバーまでプリントされているのは、1957年大江健三郎『死者の奢り』以来およそ40年ぶりである(その次が2000年の村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』)。

    もしかしたら、現代の読者は、大塚の読みを採用しているのではないか?

    という疑念が私のなかに巻き起こってしまったのだ。


    『国語便覧』のような教育的配慮に貫かれた「教材」が、その時代の〈読者=生徒〉という制約の中で書かれざるをえないのは理解できる。教科書から夏目漱石も芥川龍之介も姿を消し(さいきんまた『こころ』が復活したけれど)、とにかく現代の「読まない・読めない」生徒に合わせて教材を作るのは理解できる。

    しかしだとしたら、もう一度、大塚英志にしたがって「読み」をやり直さなければならないのではないか?


    ……とまあ、シリアスに語ってしまったが、こういうのはおおよそ「文学」に属することなので、「小説」に焦点を絞っている我々には関係のない話だ。

    ここでようやく今回の主題、「二次創作」に入る。



    大塚はまず、『ヒュウガ・ウイルス』の冒頭に掲載されている、「便概」に注目する(この「便概」の全文は、この記事の下部に引用した)。

    この作品は『五分後の世界』の続編であるはずなのだが、この「便概」、つまり一般的に言う「これまでのあらすじ」の中に、『五分後の世界』の主人公、小田桐への言及が一切ない。読み進めれば、なるほど、この作品は、前回小田桐が迷い込んだパラレルワールド「五分後の世界」が舞台ではあるのだが、今回の主人公はアメリカ人ジャーナリスト、キャサリン・コウリーであることがわかる。

    つまり、村上龍はこの『五分後の世界』シリーズで、「舞台設定」とそこで展開する「物語」を意図的に区分している。

    大塚英志の比喩にしたがうなら、プログラムされたゲーム世界としての「『五分後の世界』の世界」のなかで、それぞれのプレイヤーが異なるクエストを解決するという、一回ごとのプレイが『五分後の世界』(小田桐が主人公)と『ヒュウガ・ウイルス』(キャサリン・コウリーが主人公)に対応する(最近では「一本道」と揶揄されるゲームも多いので、誰でも同じプレイをせざるをえない状況だが)。


    この「二次創作」のレッスンで行うのは、「世界観」の盗用である。

    「世界観」といっても、ディルタイとか、そういう哲学的なおはなしじゃなく、サブカルチャーの世界で使われる「世界観」である。「舞台設定」と言ってもいい。登場する人物が同じであることもあるが、物語は基本的には異なる。

    サブカルチャーの世界では、このように、同一の世界観を用いて、異なる物語を創作することを「二次創作」という。


    これが「翻案」とは異なるのは言うまでもない。

    芥川龍之介は『今昔物語集』(もしくは『宇治拾遺物語』)の説話を翻案して、「芋粥」「羅生門」などを書いた。谷崎潤一郎は同様に「少将滋幹の母」を書いた。

    これらは翻案であって、「二次創作」ではない。舞台も人物も物語も(細部はともかく)同じでも、そこで目的とされるのは「芥川の世界観」「谷崎の世界観」を創り出すことにあるからだ。

    逆に「二次創作」といえるのは、奥泉光『「吾輩は猫である」殺人事件』や、水村早苗『続 明暗』である。それぞれ夏目漱石の「二次創作」をしたのであって、「翻案」をしたのではない。


    大塚によれば、こうした《あらかじめある「世界観」の上を任意の「物語」が走っていくというテレビゲーム的創造性》は、歌舞伎の世界にすでにあったという。《歌舞伎の世界では「世界観」に相当するものを「世界」、そして一回分のプレイ=物語に相当する部分を「趣向」と呼んできた》(太字は引用者による)。

    たとえば、現代でも有名な元禄赤穂事件が、1701年江戸時代中期に起こったが、当時はその時々に生じた事件を戯曲などで取り上げることは禁じられていた。そこで浄瑠璃や歌舞伎の作者は事件のあらましを脚色し、舞台(世界)を変えて上演した。その代表が『仮名手本忠臣蔵』である。

    大塚の言葉で言えば、『仮名手本忠臣蔵』というソフトは「太平記の世界」で繰りひろげられる〈物語〉(趣向)である。『仮名手本』では浅野内匠頭は塩冶判官〔えんやはんがん〕、吉良上野介は高師直〔こうのもろなお〕として登場する(ちなみに現代では元禄赤穂事件のことを「忠臣蔵」ということがあるが、この「忠臣蔵」は『仮名手本忠臣蔵』からきている。ややこしいが)。

    また、同じ事件を「小栗照手の世界」で展開した狂言が『鬼鹿毛無佐志鐙〔おにかげむさしあぶみ〕』(という趣向)である。

    あるいは逆に、「太平記の世界」を枠組みとした〈物語〉(趣向)では「後醍醐天皇隠岐の配所」や、由比正雪の事件を「太平記の世界」に置いた『太平記菊水之巻』などがある。

    大塚はこれを次のように図解する:

    太平記の世界 小倉照手の世界

    「世界観」とか「二次創作」とか、知っている方には「なんでそんな当たり前のことを長々と説明するんだ」と思われることを承知で説明してきたが、このシリーズは、どのような文化的体験をしてきたのかを問わない方針でやっている。

    おそらくジュニアノベルズ(ラノベ)やアニメのようなサブカルチャーに触れたことがない読者は、「世界観」と聞いても、カントやディルタイや現象学しか思い浮かばないことだろう。


    さて、大塚が当時、専門学校で出した課題はどのようなものか。

    『五分後の世界』と『ヒュウガ・ウイルス』を熟読した上で、異なるキャラクターを立てて30枚ていどの短編小説を書かせる、というものだ。

    そうすると、次の図のような関係になる:

    五分後の世界の世界

    生徒による二次創作のプロットの例がなかなか面白いので、『物語の体操』でご覧いただきたいが(私の手元にあるのが文庫版で、現在入手可能なのが新書版なので、内容がもしかしたら変わっているかもしれない)、この記事の下部に『ヒュウガ・ウイルス』の「便概」を掲載したので、それに取り組んでみてもよいだろう。そのときはぜひ30枚ていど(12000字)で。


    二次創作のレッスン

    さて、「二次創作」のやり方を説明し終わったところで、いよいよ今回のレッスンである。

    〈世界〉を提示するので、〈趣向〉を書いて欲しい。

    原稿用紙換算で30枚ていどの短編小説にして欲しい。そんなに書けない、という場合は20枚ていど(8000字)でもかまわないが、次回のレッスンは「伏線」のレッスンになる予定で、それに今回の課題で書き上がった作品を使いまわしたい。

    8000字では、なかなか「伏線」というほどの伏線を張りにくいものだ。

    物語の構成は序破急でも起承転結でも、なんでもお好きなものを使っていただいてかまわないが、おおよそ結末に近い部分に、なにか〈できごと〉を起こして欲しい。

    重要性は問わない。

    ちょっとした「動き」が欲しい。

    ミステリなら謎解きが終わってワトソン役が「ところでどうして君は●●が犯人だと思ったんだい?」と話しかけるとか(それこそ陳腐で嫌かもしれないが)、窓に突風でカエルが吹き飛ばされてくるとか、ストーリーとはまるで関係なく主人公の妻が夫以外の男とセックスするとか。

    次回、「伏線」を張るための「書き換え」をする。

    「とりあえず」でよいので、作品冒頭でそのできごとが生じることをほのめかすようなことを、自分なりに書いて欲しい。ミステリならミエミエのものでかまわない。


    で、今回〈世界〉として提示するのは、『仮名手本忠臣蔵』とならんで有名な浄瑠璃・歌舞伎の戯曲『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』である。

    あらすじをすでに別エントリとしてアップしてある。

    ざっくりと解説すると、菅原道真(すがわらのみちざね)の左遷(昌泰の変)と死後の怨霊にまつわる話である。主人公はあらすじだけ読むと道真(菅丞相)であるように見えるが、三つ子の兄弟とその親子の別れ、を主題にした作品である。二段目・三段目・四段目にそれぞれ親子の別れがあり、それぞれ「二段目=菅丞相と苅屋姫」「三段目=白太夫と桜丸の別れ」「四段目=松王夫婦と小太郎の別れ」と組織化されている。

    三つ子の名は梅王丸・松王丸・桜丸で、これは菅丞相の御愛樹、梅・松・桜からとられているが、それぞれの妻の名は春・千代・八重で、「梅の春」「千代の松」「八重の桜」と夫の名にちなんだ名がつけられている。

    当時、大坂で三つ子が生まれた実話が話題になっており、これを戯曲作者がとりいれた。


    この作品を選んだのは、たんに「菅原道真の怨霊」の話が面白くて好きだからだ(私が)。

    平安時代の話なのに、江戸時代の寺子屋が出てくるとか、時代考証はむちゃくちゃだが、全体的にドラマチックで面白い。

    純文学にすることもできるし、大衆演劇真っ青のお涙頂戴にもできる。

    小太郎がむちゃくちゃされてかわいそうだろ、と突っ込みもできる(怨霊になりそうである。菅秀才と怨霊バトルを繰りひろげるとか……)。

    道真の怨霊はこんなもんじゃないはずだ、もっとやれ! とも言いたくなる。

    後日談もいいし、書かれていないエピソードもいい。

    現代劇にしたければ、子孫たちの話にしてもよい。時平の怨霊が現代に蘇るとかね。


    ポイントは、『菅原伝授手習鑑』で生じたできごとを、なかったことにはできない、という点である。あくまでもこの〈世界〉を「前提」にして書かなければならない。

    岩波文庫から戯曲全文が出版されており、読んでもよいが(おおいに参考になるとは思う)、あの文体で書いても誰にも読めないので、文体は自己流でよい。

    ちなみに原作では冒頭の時平は気も狂わんばかりに怒り狂っており、面白い。


    もういちどリンクを貼っておく:


    『ヒュウガ・ウイルス』の「便概」

     現在より五分間時空のずれた地球では、もう一つの日本が戦後の歴史を刻んでいる。

     日本は太平洋戦争において沖縄戦ののち、広島、長崎、小倉、新潟、舞鶴に原爆を受けながらもアメリカ軍と本土決戦を行った。その結果、戦闘、空襲により日本全土は焦土と化し、連合軍の占領下に置かれることになった。北海道・東北が旧ソ連、それを除く本州と九州の大半をアメリカ、四国をイギリス、また権利を主張した中国が西九州を分割統治した。その時点で日本の人口は、八千万人から二千三百万人に減少していた。本土決戦直前に勅令として出された全国民を兵士とする『義勇兵役法』と、旧ソ連軍による虐殺、それに全土に蔓延した飢餓、疫病のためである。そして、軍指導者はすべて逮捕、処罰された。大日本帝国は消滅したのである。

     帝国崩壊後まもなく、ビルマ、ニューギニアから帰還した僅かの将校団が、旧長野に集結した。国家消滅の危機に際して新たな日本を興すことを志した彼らは地下に潜った。日本国地下司令部の誕生である。後にアンダーグラウンドとも呼ばれる日本国は、無数のトンネルを地底にめぐらせながら、国家を形成していった。

     やがて、地下数百メートルに二十六万の人口を持つ日本軍は冷戦を利用し極めて機能的で強力な戦闘的小国家に生まれ変わった。日本国軍(UG軍)は、本土に駐留する国連軍相手にゲリラ戦を繰り返し、反帝国主義を掲げる傭兵として海外の内乱や紛争、革命にも参加した。五九年のキューバ革命時にも、フィデル・カストロの要請を受けたUG軍は、竹内剣次大尉率いる小隊を派遣し革命軍を助けた。

     一方、分割統治され「技術移民」を海外から受け入れた日本本土では、オールドトウキョウ、オサカなど都市部を中心に巨大なスラム化が進んだ。移民政策そのものが失敗し、各スラムに戦後誕生した混血児達の多くは、国連軍駐留による閉塞感と不安感から、暴動、略奪に明け暮れていた。混血児達は、強者である国連軍に徹底抗戦を挑むアンダーグラウンドを尊敬し、憧れていた。

     七二年に日本国地下司令部を視察した晩年のアルベルト・アインシュタインに「いかなる意味の差別もない国はUGだけである」と賞されたアンダーグラウンドは、戦闘国家でありながら高度な文化、芸術、科学を誇っていた。全世界が常に注目する音楽家ワカマツは、まさに日本国の象徴であり、UG生化学研究所が開発した『向現』は、副作用のない完璧な向精神薬として、貨幣さながらに世界中のブラック・マーケットで取引されている。

    (村上龍『ヒュウガ・ウイルス 五分後の世界II』幻冬舎)

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