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    『大いなる沈黙へ』、演劇性あるいは遅延=持続

    Into Great Silence

    先日の日曜(2014-09-21)、フォーラム福島で2本のドキュメンタリー映画を観た。フィリップ・グレーニング監督『大いなる沈黙へ』とマルク・ヴィーゼ監督『北朝鮮強制収容所に生まれて』。

    両作品ともに濃度が高すぎて、まだ整理しきれていない。なにより疲れた。


    9月8日には『アクト・オブ・キリング』も観ており、「私」の在り方を根底から覆すような圧倒的体験をたてつづけに受け取ったわけで、トラウマにならなければよいのだが、といらぬ心配をしている。

    『アクト・オブ・キリング』については先日書いた。

    あと2本、ひとつひとつ「やっつけて」いこう。今日は『大いなる沈黙へ』。

    • 『北朝鮮強制収容所に生まれて』(リンク予定地)

    『大いなる沈黙へ』、演劇性あるいは遅延=持続


    この作品を見終わった瞬間に、この体験を持続させたい、という欲望に駆られ、パンフレットを買った。このパンフレットを開いた瞬間、ぼくの精神は強烈な「引き裂かれ」をこうむった。

    この事情を整理するために、この映画評も前半後半に分けよう。


    intro

    このドキュメンタリー映画の舞台は、フランスアルプス山脈に立つグランド・シャルトルーズ修道院。

    1084年、ケルンの聖ブルーノに与えられた建物で、彼はカルトジオ会を創始した。

    1132年に雪崩に埋まり、現在までに8回火事にあっている。現在の建物は1688年の建築である。

    グランド・シャルトルーズ修道院は、カトリック教会の中でも厳しい戒律で知られる男子修道院。俗世間からほぼ完全に隔絶され、何世紀も変わらない、決められたルーティンをこなすだけの生活を送る。会話が許されるのは、日曜日の昼食後、ウォーキングをする4時間のみ。礼拝堂・控えの間・廊下では会話どころか言葉を発することさえ禁じられている。

    これまでこの修道院の内部が明かされることはなかった。


    この作品の制作には、構想から21年の歳月がかかっている。

    フィリップ・グレーニング監督は、1984年に撮影を申し込む。返ってきた返事が「まだ早い」。その16年後の2000年、突然「準備が整った」と電話がかかってきた。

    修道会側の提示した条件によって、この作品の作られ方は、おおかた決定されたようなものだろう。

    「礼拝の聖歌のほかに音楽をつけてはならない」

    「ナレーションをつけてはならない」

    「照明を使ってはならない」

    「中には入れるのは監督ひとりのみ」

    グレーニング監督は、合計6ヶ月間、彼らと共に生活し、たったひとりで、自然光のみをつかって撮影した。

    編集には1年かかった。


    結果、169分というきわめて長い作品に仕上がった。


    タイトル『大いなる沈黙へ』(原題"Die Grosse Stille"、英訳"Into Great Silence")の示唆する通り、映画の中に在るものは、「沈黙」だけである。

    「沈黙」だけがある、ということがすなわち、音がないことを意味するのではない。

    むしろ我々は、この作品にとって「音」がきわめて重要な構成要素であることを思い知らされることになる。

    うつされる修道士たちは、ひたすら祈る。静止画なのだろうと確信しそうになる瞬間に、風に修道衣がわずかになびく。

    床がきしむ。板張りの建物のたてる音が、耳に突き刺さる。

    衣擦れの音がする。わずかな無音との差異が、世界に一瞬にして充満する。


    作品の冒頭シーンは、ある修道士の、薄暗がりの中の横顔のアップ。

    10分は同じカットが続いたかのような錯覚に陥るが、おそらく2~3分ほど。

    まず我々は、スクリーンに映し出されているのがいったい何であるのか、まるでわからなくて、とまどう。

    曲線は、乱れたシーツのようでもあり、女の柔らかな裸体のようでもある。

    やがてそれが男の横顔であることに気づく。なめらかな曲線は男の耳だったのだ。

    そして、おそらくこの男は眠っているのだろう、とまた錯覚する。

    カメラがズームアウトする。

    男は薄暗がりの中で、おそらくは独房の中で、ひたすら祈っているのだということを、そこで我々は初めて知る。


    この冒頭シーンによって、作品全体を支配する「トーン」がどのようなものか、我々は確信する。

    そしてその確信は永遠に裏切られない。


    カメラに映るもの、すべてが美しい。聴こえてくる音、すべてが美しい。


    彩度を落とした建物、内装。

    修道士のしぐさ。

    聖書をめくる音。

    聖書を朗読する声。

    聖歌。

    祈るたたずまい。

    季節の移り変わり。

    頭を刈る電気バリカン。

    聖歌を一人練習するために音程をとる小さな電子キーボード。


    そして観客であるはずの我々は、すぐに「映画を観ている」ことを忘れてしまう。

    同じ時、同じ瞬間を、共有している錯覚に陥る。

    映画が修道院そのものであり、映画館が修道院そのものになる。



    言葉が交わされることはない。

    ドキュメンタリー映画がよく使用する、出演者へのインタビューという手法は、全編を通して、(記憶が確かならば)2箇所ほどだった。

    それも、一言、二言程度。

    盲目の修道士が、視力を失ったことを神に感謝するという。盲目になったのは、魂を正すためだと。

    老修道士が、死は最大の喜びだという。死ぬことによって我々は神に近づくことができると。



    岩波ホールで上映開始されて以来、毎回満員で、岩波ホールでは観ることができなかったという観客も多い。

    ポジティブな意見ばかりではないが、おおよそ、映画を観たというよりも、修道院で祈りを捧げた体験を感じとっているコメントをよくみかける。


    ときどき、「十分に睡眠をとってから観に来て欲しい」と苦言を呈する者がいる。寝息が聞こえると。

    それは違う!

    この映画は、睡眠が約束された映画なのだ。

    ここで眠っても、次に目が覚めたときに、まだ同じ時間の円環が続いているだろうという、信頼に裏打ちされた作品なのだ。

    そしてじっさい、しばらく眠って、目が覚めても、目の前にあるのは、同じ時空間の円環なのだ(季節は変わっていることがある)。


    この円環のルーティーンは、修道士の平日のスケジュールが、曼荼羅のように反復して発揮する効果でもある。

    修道士の典型的な平日の過ごし方は、次の通り。

    23:30起床 房での祈り
    00:15朝課、賛課(礼拝堂) matins
    ~3:00聖母とともに神を讃える
    03:15就寝
    06:30起床
    07:00お告げの祈りを唱える prime
    レクティオ・ディヴィナ/霊的読書(ミサ準備のため)
    08:00ミサ(礼拝堂)
    09:00聖書による霊的読書
    10:003時課の祈り terce
    学習・労働
    12:00お告げの祈り、6時課の祈り sext
    昼食、自由時間
    14:009時課の祈り nones
    労働・学習
    16:00聖母とともに神を讃える祈り
    16:15晩課(晩の祈り)(礼拝堂) vespers
    17:00霊的読書、軽い夕食
    18:45お告げの祈り・終課(就寝前の祈り) complines
    19:30就寝 遅くとも20:00まで

    つまり1日に2回眠る。ミサと礼拝堂での祈りに加えて、7回独房で祈る。

    そして、修道士は独房で生活するとはいえ、一人で自由に過ごせる時間は昼食後のほんの少しの時間だけである。

    所有できる私物はブリキ缶ひとつに収まるものだけである。

    「可能な限り、静かに」という規約を厳守するため、修道士の所作は、このルーティンのなかで洗練されていく。

    衣擦れの音さえ、可能な限り生じないように配慮する。

    グレーニング監督は、《自分のジャケットの生地がこすれ合う音でさえ、耐え難いほどにうるさい》と述べている。



    世俗から完全に切り離された宗教的生活を送ることは、我々にとっても、禅宗の修行僧などを通して身近に感じられる。

    しかし、独房で孤独に祈らねばならず、会話さえ禁じられるところが、やはりきわめて異質なものだという感覚を与える。


    修道院内には投書箱がある。

    修道士間のメッセージのやりとりは、ここに残す。

    グレーニング監督も、彼の撮影に難色を示した修道士とこれを用いて連絡をとった。


    グレーニング監督は、当初、修道院側に「一種の宣伝になるだろう、と言って説得していた」と言う。

    《だが、この考えはカルトジオ会にとっては、まったくばかげた考えなのだ。修道会に修道士を迎え、その後、おそらく25年経ってから、この世界がその人にまったく向いていなかったと気づくことほど悲惨なことはないだろう。その時彼はどうするか?》

    グランド・シャルトルーズで修道士生活を送りたいと訪れる者は数多いが、そのうち8割は自ら去ってゆく。

    残りの2割のうち何人かは、修道士たちに追い出される。



    ぼくはこの作品を「体験」した。

    これ以上に、こう形容するのがふさわしい作品もないだろう。

    円環的な反復。劇作法(あるいは交響曲の作曲法)が則っている、直線状の時間利用からの逸脱。

    つまりぼくはこの作品を、ミニマリズムの極北として享受したのだ。


    outro

    パンフレットをめくると、最初の評論文の著者が小沼純一だった。

    ぼくの精神が強烈に「引き裂かれ」たのはこの瞬間だ。

    たしかに、ぼくは、この作品をミニマリズムとして享受した。

    そして手元には、小沼純一の『ミニマル・ミュージック』がある。


    この作品を「ミニマリズム」として享受することは決定的な誤りだったのではないか?


    「小沼純一」という固有名を目にしてぼくの脳裏によぎったのは、「マイケル・フリード」というもうひとつの固有名である。

    マイケル・フリードは1968年の論文「芸術と客体性」において、1960年代のミニマリズムを批判している(Fried[1968=1995])。

    (…)ミニマル・アート――私はむしろリテラリズムの芸術と呼ぶのを好むのだが(…)(Fried[1968=1995:66])

    私が提起したい答えはこうだ。リテラリズムによる客体性の擁護は、結局、演劇(theater)の新しいジャンルのための口実以外の何物でもない。そして演劇とは今や芸術の否定である。

    リテラリズムの感性は演劇的(theatrical)である。なぜなら、まず第一にそれは、そこで観客がリテラリズムの作品に出会う諸々の現実的な環境に関わっているからである。〔ロバート〕モリスがこのことを明らかにしている。かつての芸術においては、「作品から受け取られるべきものは、厳密に[その]内部に位置している」のに反して、リテラリズムの芸術の経験は、ある状況における客体の経験である――それは実質的には定義上、観者を含んでいるのである。([ibid.:71])

    客体(object)が大きければ大きいほど、我々はそれからの距離をより大きく保つよう強いられる。

    (中略)

    「非個人的もしくは公共的な在り方」というモリスの考えの演劇性(theatricality)は明らかなことと思われる。作品が大きいということが、その非関係的でユニタリ―な性格とあいまって、観者に距離を取らせる――身体的にのみならず精神的にも。正確には、かように距離を取らせることで、観者を主体(subject)とし、問題の作品を……客体(object)とする、と言ってよかろう。([ibid.:72])


    ミニマリズム美術は、鑑賞者の身体性をも巻き込む演劇性(theatricality)に依存しており、芸術のモダニティすなわち「純粋な視覚に対する瞬間的な現前」からの退行にすぎない、と。


    なぜぼくは、「現前性」を擁護するマイケル・フリードではなく、「遅延=持続」を擁護するロザリンド・クラウスを想起しなかったのだろう?

    35歳までのぼくは、現前性の形而上学に備わるファルス-ロゴス中心主義を、徹底的に「脱構築」する側に徹底的に与していたというのに?


    いまから20年ほど前、ぼくには、ロザリンド・クラウスの脱構築の試みが、「完璧に」マイケル・フリードの「現前性の形而上学」を反駁するのに成功している、と確信していた。いまや、その確信は疑念に変わっている。いやむしろ、「完全に失敗」したとまで感じ始めている。


    ロザリンド・クラウスは、知覚に与えられたセンス・データからストーリーを構成していくという対象構成の欲望と、その時間的持続性を精神分析的に書いてみせた。


    ロザリンド・クラウスは、アルベルト・ジャコメッティの「吊されたボール」(1930-31年)を例にあげ、フリード流の「瞬間的な現前性」が、遅延=持続の中における現前への欲望にすぎないことを明らかにする。

    Suspended Ball

    「吊されたボール」は、ふたつの客体から成る作品である。ひとつは三日月型の楔であり、もうひとつは吊るされたボールで、亀裂が入っており、その亀裂に楔が切り込んでいる。これらは容易にエロティックな想像を喚起する。ボールは女性器か尻のようであり、楔は男性器か愛撫する道具のようである。だが重要なことは、この対象のイメージは同一性をもたない、という点にある。

    ここで起きる動揺は、バタイユが変質(alteration)と呼んだもの、両価性、すべての「アイデンティティ」のそれ自身からそれとは違うものへの分裂――したがって形式の解体という様相を帯びる。というのは、その動作が愛撫なのか切断なのかは明らかでないし、この先明らかになることもありえないからだ。……この意味で、振り子が往復するたびに変質が起こり、アイデンティティは増殖する。唇。睾丸。尻。口。目。時計仕掛けのように、一秒ごとにすべての構成要素の転倒を刻む時計のように。異性愛……同性愛……自体愛……。(Krauss[1992→1997:199-200])


    たしかに、「吊るされたボール」を享受することは、かような動揺=変質を体験することだ。そこではアイデンティティが脅かされる。そして客体とは、かつ同一性とは、客体に同一性を見出そうとする我々の欲望の投影、仮構にすぎないということがよくわかる。さらに主体とは、客体に同一性を認めたそのあとで仮構されるものにすぎない。

    マイケル・フリードが幻視する「視覚の純粋性」――そこでは視覚に直接・瞬間的に与えられたすべてのセンスデータが、それ自体の内部で関係づけ合い、その意味はその瞬間において即座に決定され(あるいはすでに決定済みである)、質量も延長ももたない――こうした男性中心主義的なファンタジーは、明らかに脱構築されるべきである。

    しかし「べきである」と私が言うときに、そこにあるのは倫理的欲求でないと、誰が言えるだろうか?


    これは映画をめぐっているために生じているややこしさなのだろうか。

    映画は、絵画にも、音楽にも、そしてなによりも「演劇」に似ている。

    しかし、ヒッチコックやデ・パルマの映画には感じない「ミニマリズム」を、私はたしかに『大いなる沈黙へ』に感じとっている。

    ヒッチコックの『鳥』であれデ・パルマの『ミッション・インポッシブル』であれ、「演劇的(theatrical)」ではある。

    しかし観者にはいかなる決定権もない。

    映画作品の決定権は作り手(監督であれプロデューサーであれ編集者であれ)の手に委ねられているのであって、観者の身体性に依存するのはせいぜい音響効果だの3Dメガネによってである。その意味で、マイケル・フリードが罵倒するような「公共性」はない。

    ゆえに、映画は根本的に演劇とは異なっており、ミニマリズム(リテラリズム)ではない。


    音楽と対比させてはどうだろう?

    小沼純一は、1997年の著作『ミニマル・ミュージック』で、「音の現前性」をもって、ミニマル・ミュージックを擁護している。

    ライヒでもグラスでもいい、実際にライヴで聴いてみれば、音の現前性がきわだっていて、それに圧倒されることだろう。(S.10)

    これはたんなる過失かもしれない。

    音楽に「聴覚の純粋性」などありえないのは自明のことだ。

    ミニマル・ミュージックの手法は、西洋近代的な、「物語」の枠組みを突破するところに「画期的」な意義があった。

    ミニマル・ミュージックを聴くと、「聴覚の純粋性」つまり「音の現前性」によって、その「突破」が成し遂げられているという錯覚を、はじめは持つことになる。しかし、しだいに反復によって差異が、効果として創出されていく体験をする。


    『大いなる沈黙へ』は、ミニマル・ミュージックのように、反復によって成り立っている。

    しかし、差異を生み出さない反復によって。

    ミニマル・ミュージックが「どこから始まってもよく、どこで終ってもよい」芸術だとしたら、『大いなる沈黙へ』にあるのは「決して終わらないだろう」という奇妙な信頼である。映画は絶対に終わるというのに!


    ウォーホルの映画『エンパイア』をぼくは真面目に観たことがある。

    これはまぎれもないミニマリズムの映画だろう。8時間にわたってエンパイアステートビルを延々と固定カメラで映しているだけの作品で、観客に苦痛しか与えない。

    寝て起きてもまだ同じである、という点で、『エンパイア』と『大いなる沈黙へ』は共通している。

    ぼくが「ミニマリズム」だと「錯覚」したのは、この点においてである。


    さらに、『大いなる沈黙へ』にあったのは、映画自体が修道院の役目を果たすという「非個人的もしくは公共的な在り方」である。このロバート・モリスによるミニマリズムの定義に依拠して、マイケル・フリードはこれを批判した。

    ぼくが動揺したのは、まさにフリードが批判したそのものの圏内に、自分が無批判にいたのではないかと気づいたからだ。



    • Fried, Michael, 1968, "Art and Objecthood", Gregory Battocock(ed.) Minimal Art, E. P. Dutton&Co. Inc.=1995、(川田都樹子・藤枝晃雄訳)「芸術と客体性」浅田・岡崎・松浦編『モダニズムのハード・コア』太田出版。
    • Krauss, Rosalind E., 1992→1997, 「格子の主題をめぐる六つの覚え書き」, 磯崎・浅田監修『Anyone』NTT出版。


    appendix

    聖書からの引用。



    この映画では、言葉が交わされず、ナレーションもない代わりに、聖書からの引用が字幕でときどきインサートされる。

    まず『旧約聖書』(ユダヤ教では『聖書』)の「列王記上」第19章。

    主の前で大風が起こり 山を裂き 岩を砕いたが

    主は おられなかった

    風の後 地震が起こったが

    主は おられなかった

    地震の後 火が起こったが

    主は おられなかった

    火の後 静かなやさしい

    さざめきがあった

    2005年に世界的に上映され、各種映画賞を受賞した、この貴重な映画が、日本では2014年まで上映されなかったことは、宗教観の違いという要因の他にも、この「列王記」の引用が、東日本大震災を喚起してしまう、という事情があったのかもしれない(うがちすぎな見方だが)。



    仏教と似ているところと異なるところ。

    双方大事だと思う。

    インサートされる字幕をもうひとつ引用する

    一切を退け私に従わぬものは 弟子にはなれぬ

    この引用元は明記されていないが、おそらく、『新約聖書』の「ルカによる福音書」14章ではないだろうか。

    ぼくの手元には文語訳版(今年岩波文庫から出た決定版――おそらく日本語訳の『新約聖書』としてはこれ以外必要ないのではないか)と新共同訳(おそらくどこかのホテルにあったものを持ち帰ったもの)しかないが、1954年の日本聖書協会翻訳版(パブリックドメインに入っている)から引用しよう。

    14:25 大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて言われた、

    14:26 「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。

    14:27 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。

    14:28-32 (略)

    14:33 それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。

    「マタイによる福音書」にも似た箇所がある。第10章。

    10:34 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。

    10:35 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。

    10:36 そして家の者が、その人の敵となるであろう。

    10:37 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。

    10:38 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。

    こうした教説は、仏教に近いものがある(仏陀はさすがに「私に従え」とは言わないが)。信仰を成し遂げようとするならば、もっとも愛する者さえも裏切らなければならない。

    新共同訳では「憎まなければならない」とまで訳している。

    こうした、俗世間の観点から見ると「過激」な思想が根本的に理解されない限り、キリスト教であれ仏教であれ、理解することはできないため、いくらぼくが仏教に(とくにサンスクリット語から訳された原始仏教典に)傾倒しているからといって、人に勧めることはできない(その意味で戦前期の日本で生まれた日蓮系新興宗教の「折伏」は仏教に相容れないとぼくは考えている)。

    仏教の場合、愛こそが「執着」を生むとされる。執着がすべての苦の原因である(生老病死=四苦。これに「愛別離苦」などの四苦を加えて「四苦八苦」という)。

    ここでもう一度、映画で引用される箇所をみよう。

    一切を退け私に従わぬものは 弟子にはなれぬ

    この映画では一貫してフランス語訳が用いられているが(日本にあるどの訳とも異なるために、字幕への違和を唱えるキリスト者は多い)、通常、仏教で「一切」と言う場合、「救い」や「喜び」や「仏陀」さえも含む。仏教の目的は神を崇拝することでも自己が救済されることでもなく、みずからが「仏陀」になることである、という点で、他の世界宗教とまったく異なる。

    仏陀になるためには、仏陀さえも、仏陀になりたいという欲望さえも、捨て去らなければならない。

    ここがキリスト教との違いであり、おそらく「一切を退けよ」と言う場合に、「私に従うということを除いて」という超越的な論理階梯がそこにはあるのだろう。

    先に、

    老修道士が、死は最大の喜びだという。死ぬことによって我々は神に近づくことができると。

    という稀なインタビューシーンに言及した。

    繰り返すが、仏教では、神も喜びも天国も否定しなければならない(「極楽浄土」は、鎌倉仏教成立当時に世俗的に信仰されていた浄土信仰を「方便」として用いたものだ)。

    仏教では、死に、まったく意味が無い。これはすなわち生にまったく意味が無いということを意味する。生にも死にも意味が無い境地に至ってはじめて、あらゆる苦からの解放が可能になる(余談ついでに言えば「苦」は仏教用語では苦しみを意味するのではなく、思うようにならないことを意味する)。



    もうひとつ、引用元が明らかでない引用をあげる。

    静けさ――その中で主が 我らの内に語る声を聞け


    このフレーズを聖書の中から見つけることは難しい。

    海外でもこのフレーズをめぐって議論がなされている。

    英訳では"Behold the silence: allow the Lord to speak one word in us, that He is."という字幕がついている。

    ぼくがみつけた掲示板では、これは十字架のヨハネ(John of the Cross)の『愛と光について』からではないか、という意見が有力であるように思えた。



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