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    スケッチトレーニング:3ヶ月で小説を書く方法(Week5)

    スケッチ

    今週の課題は「スケッチ」のトレーニング。


    前回までの目次:



    おそらく、多くの小説書きたちが、「スケッチブック」を所有しているだろうと思う。それを「創作ノート」とよぶのであれ、「創作メモ」とよぶのであれ、あるいはたんに「メモ帳」とよぶのであれ、なんらかの、原稿用紙に清書する「以前」の断片を、書き記していると思う。

    だから、3ヶ月講座の2ヶ月目に入って「スケッチをしてみよう」などと言われても、「なにをいまさら」と思うかもしれない。


    もちろん、私が皆さんを「スケッチさえしていない怠け者」だとみくびっているわけではない。

    ここでやろうとしているのは、ある種の「外部観察者」の視点の導入であり、つまり自らのスケッチに対して批判的であろうとする試みである。


    これにかんしても、「すでに、自分のスケッチを何度も推敲し、書き直し、それでも納得行かず、大作家の名文との落差に呆然としているのだ」と反論されそうだ。

    それは、そうかもしれない。

    今回に限っては、私もここで画期的な解決策を提示できるとは思っていない。



    私はこのシリーズを、フレームワークとして提出しようとしている。

    つまり、「レール」にのってさえいれば、必ず目的地に着く、それも限りなく速く――そうしたひとつのフレームワークの提示の試みを行おうとしている。

    これはソフトウェア開発でいうところの「アジャイル開発」に着想を得たもので、なかでもアジャイル開発で頻繁に使用されるRuby on Railsというフレームワークに依っている。

    Rubyとは、C言語やPerlやJavaといったプログラミング言語の一種であり、Ruby on RialsとはRubyで書かれたフレームワークである。じっさい、Railsを使えば、10分程度でブログシステムや会員制サイトなど(その他Webを使ったシステムであればなんでも)を構築できてしまう。

    まず「とりあえず完全に動く」システムを短期間で構築する。見た目や追加機能はあとからステップ・バイ・ステップで付け足してゆく。

    重要なのは、計画された長期間の開発の最後の段階でやっと動く、のではなく、そのつど、見た目は多少みすぼらしくても、必ず「完全に動く」ものをリリースすることである。


    3ヶ月のレッスンを通して、おおよそ「Rails寄り」の課題を示していく。前回までも「Rails寄り」だった。

    しかし今回の「スケッチ」は、「Ruby寄り」である。

    つまり、フレームワークよりも、フレームワークを動かしたり、フレームワークの中で動いたりする、プログラム・コードに焦点化する。

    いくらRuby on Railsがフレームワークとして優れているからといって、すべての開発者が同じアプリケーションを作るわけではないのだから、コードは書かなければならない。Rubyという言語で書くのである。

    そうすると、上手いコードを書く熟練プログラマもいれば、Rubyの仕様にあまり通じていない初級プログラマもいるということになる。

    また、Ruby以前に、プログラマとして熟練しているか(コードが見やすく、アルゴリズムが簡潔で効率的である)、プログラマとして未熟か(コードを他人が見るということに意識的でなく、処理の方法もエレガントでない)という「差」がある。


    今回の「スケッチ」のトレーニングは、「熟練プログラマ」をめざしましょう、という、なんとも身も蓋もない内容である。

    だから、今回のレッスンは、このシリーズ中、もっとも「つまらない」ものだろうと思う。そこはお詫びするしかない。「努力と根性」を使いましょう、というわけだから。


    ただ、登山も速いほうがよい(という方針でこのシリーズは書かれている)。

    近道を提示する。



    ルール:

    「スケッチブック」を用意する。いつも使っている紙の「創作ノート」でもいいし、スマホを使っているならEvernoteでいいだろう。

    頭が良さげな人たちは、方眼罫のノートかレポートパッドを使っている印象(ロディアがいいかニーモシネがいいかライフ・クリッパーがいいか、という宗教戦争はあるが)。

    私はEvernoteをほとんど使っており、打ち合わせのような人とのコミュニケーションの場では無印の落書き帳を使っている。


    スケッチ対象のリスト。もちろん、自由に付け加えてもよいが、最低限、このリスト項目は含めること。

    • 人物
    • 屋外
    • 二者関係
    • 家族
    • 一瞬のできごと
    • 静物
    • 会話
    • 記憶

    「近道を提示する」と言った。

    たんじゅんに、「このレベルを超えるものでなければNG」という例を示していく。

    NGだからといって、破り捨ててはならない。いつどのタイミングで、その断片が活き活きとしたものに見えてくるのか、あなた自身にもわからないからだ。

    また、超えたか超えないかについて、確定した判断、それはつまり10cmよりも11cmの方が長い、というようなアプリオリな判断ということだが、そうした判断もあなたにはできない、ということを忘れずにいること。


    人物


    まずは人物描写から。

    ほんとうは、人物を「描く」方法は無数にあり、それは物語の構造によっても可能だし(「構造」についてはweek4で述べた)、会話によっても可能だ。

    人物を、写生するように書く(スケッチする)のは、小説における人物描写にとって、どちらかというと「邪道」なほうだ、とまで言ってもよい。


    ラノベの世界では、これはキャラクター小説ということになるから、キャラクターの描写からがまずなされなければならない、とされている、らしい。どうやら、「世界観」(舞台)の描写に引き続いて、キャラクターを「絵に見えるように」書く、というのが作法になっている、らしい。


    「らしい」と歯切れの悪い言葉を使うのは、私自身がラノベに精通しているわけではなく、ラノベの下読みに携わった人間から伝聞で知ったからだ。

    しかも、彼が言うには、「この作品は世界設定の描写から始まっていないからボツ」のような「マニュアル読み」しかできない者が下読みをしているから、ラノベ界は壊滅的だ、というようなネガティブなニュアンスだった。

    私にとって、ラノベはとても読みにくい。

    「どこがライト(ノベル)なのだろう」と疑問に思う。

    『デュラララ!!』(第1巻)の冒頭はセルティの描写、ついで竜ヶ峰帝人の描写、とキャラクター描写が続くが、どちらも読むのに苦労する。

    先にアニメを視聴していたので、意味が取りにくくとも、なんとか読み進めたが、疲れた。

    アニメ化されたということは、原作が大ヒットした作品ということになるが、よくまあ、ラノベ好きはこの難解な暗号を読み解くもんだ、と感心してしまう。


    それはともかく、まず志賀直哉『赤西蠣太』を作例として示す。


     昔、仙台坂の伊達兵部の屋敷にまだ新米の家来で、赤西蠣太〔かきた〕という侍がいた。三十四、五だというが、老けていて四十以上に誰の眼にも見えた。容貌はいわゆる醜男の方で言葉にも変な訛があって、野暮臭い何処までも田舎侍らしい侍だった。言葉訛は仙台訛とは異〔ちが〕っていたから、秋田辺だろうと人は思っていたが実は雲州松江の生まれだという事だ。真面目に独りこつこつと働くので一般の受けはよかったが、特に働きのある人物とも見えないので、才はじけた若侍たちは彼を馬鹿にして、何かに利用するような事をした。蠣太はそういう時には平気で利用されていた。しかし若侍たちも馬鹿ではなかったから承知で利用されている蠣太に己らの余り趣味のよくない心事を見ぬかれていると思う事は愉快でなかった。段々皆もそういう事を仕〔し〕なくなった。

    (志賀直哉『赤西蠣太』)

    冒頭の1段落のみ抜き出した。この短編小説の最初の3段落は、この赤西蠣太の人物描写に費やされている。

    志賀直哉の小説に共通する「短さ」を考えるなら、主人公の描写に3段落も使うということは、少し異常に感じられる。

    この冒頭の3段落に引き続いて、蠣太の相棒・銀鮫鱒次郎〔ぎんざめますじろう〕の描写が出てくるのだが、これもまた蠣太との対照のために描写されているようなものだ。


    ところで、「蠣太(かきた)」「鱒次郎(ますじろう)」ときて、蠣太が鱒二郎にそそのかされてラブレターを書く相手が「小江(さざえ)」である。ほとんど『サザエさん』の世界である。


    屋外


    屋外といっても、山の深い森林の奥深くから、都会のモダンな高層ビル街までさまざまだが、移動しながら、手当たり次第にスケッチするのがよい。

    ここで例示するのは梶井基次郎『檸檬』である。京都の裏通りを描写している。

     何故だかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしても他所他所しい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転してあったりむさくるしい部屋が覗いていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕んでやがて土に帰ってしまう、と云ったような趣きのある街で、土塀が崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とすると吃驚〔びっくり〕させるような向日葵があったりカンナが咲いていたりする。

    (略)

     ある朝――その頃私は甲の友達から乙の友達へという風に友達の下宿を転々として暮していたのだが――友達が学校へ出てしまったあとの空虚な空気のなかにぽつねんと一人取残された。私はまた其処から彷徨〔さまよ〕い出なければならなかった。何かが私を追いたてる。そして街から街へ、先に云ったような裏通りを歩いたり、駄菓子屋の前で立留まったり、乾物屋の乾蝦〔ほしえび〕や棒鱈や湯葉を眺めたり、とうとう私は二条の方へ寺町を下り、其処の果物屋で足を留めた。此処でちょっとその果物屋を紹介したいのだが、その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった。其処は決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた。果物はかなり勾配の急な台の上に並べてあって、その台というのも古びた黒い漆塗りの板だったように思える。何か華やかな美しい音楽の快速調〔アツレグロ〕の流れが、見る人を石に化したというゴルゴンの鬼面――的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったという風に果物は並んでいる。青物もやはり奥へゆけばゆく程堆〔うず〕高く積まれている。――実際あそこの人参葉の美しさなどは素晴しかった。それから水に漬けてある豆だとか慈姑〔くわい〕だとか。

    (梶井基次郎『檸檬』)

    梶井基次郎の「檸檬」というと、丸善に仕掛けられた爆弾、という「あらすじ」ばかりが有名になりすぎている。

    なぜ主人公は丸善に爆弾を仕掛けなければならなかったのか。なぜ檸檬を買ったのがこの果物屋なのか。なぜ主人公はこの果物屋を「美しい」と感じているのか。

    この執拗な「スケッチ」が印象深いからこそ、「丸善爆弾」は必然的に感じられ、というよりむしろ「丸善爆弾」は失敗したいかにも通俗的な鬱屈描写でしかなく、「ダサい」場面であって、「檸檬」という作品のなかでは修正されなければならない蛇足である。

    もっとも、この「裏通りの描写」の前段には、主人公の内面描写があって、そこがすでに「ダサい」ので、全体として失敗作なのだが。



    夢を描いた小説も多い。

    「夢オチ」のような失敗が確約されている書き方もあれば(ただしTV放映版『まどか☆マギカ』の冒頭のような「メタ夢オチ」は高級なものと見なされている――劇場版では「夢オチ?」というまどかのセリフはカットされている)、実際に誰かが見た夢を小説化したものもある。

    いかにも夢であるように、つまり枕元にノートを置いて「夢日記」を書くようには、書かないほうが効果的ではないだろうか。

    夢「らしさ」は、脚色、つまり小説家の想像力によって強められることではじめて発揮される。意外と、たんなる夢日記は、誰のものでも似通っており、面白みにかけるものだ。

    かつては「夢日記を書き続けることは有害である」という説が有力だったのだけれど、いまはどうなっているのか、よくわからない。

    ともあれ、夏目漱石の最高傑作であると私が思っている『夢十夜』の第三夜の冒頭を例にする。


    こんな夢を見た。

    六つになる子供を負〔おぶ〕ってる。たしかに自分の子である。ただ不思議な事にはいつの間にか眼が潰〔つぶ〕れて、青坊主〔あおぼうず〕になっている。自分が御前の眼はいつ潰れたのかいと聞くと、なに昔からさと答えた。声は子供の声に相違ないが、言葉つきはまるで大人である。しかも対等だ。

    左右は青田〔あおた〕である。路は細い。鷺〔さぎ〕の影が時々闇に差す。

    「田圃へかかったね」と背中で云った。

    「どうして解る」と顔を後ろへ振り向けるようにして聞いたら、

    「だって鷺が鳴くじゃないか」と答えた。

    すると鷺がはたして二声ほど鳴いた。

    自分は我子ながら少し怖くなった。こんなものを背負〔しょ〕っていては、この先どうなるか分らない。どこか打遣〔うっち〕ゃる所はなかろうかと向うを見ると闇の中に大きな森が見えた。あすこならばと考え出す途端に、背中で、

    「ふふん」と云う声がした。

    「何を笑うんだ」

    子供は返事をしなかった。ただ

    「御父〔おとっ〕さん、重いかい」と聞いた。

    「重かあない」と答えると

    「今に重くなるよ」と云った。

    自分は黙って森を目標〔めじるし〕にあるいて行った。田の中の路が不規則にうねってなかなか思うように出られない。しばらくすると二股になった。自分は股の根に立って、ちょっと休んだ。

    「石が立ってるはずだがな」と小僧が云った。

    なるほど八寸角の石が腰ほどの高さに立っている。表には左り日〔ひ〕ヶ窪〔くぼ〕、右堀田原〔ほったはら〕とある。闇だのに赤い字が明〔あきら〕かに見えた。赤い字は井守〔いもり〕の腹のような色であった。(略)

    (夏目漱石『夢十夜』)

    おそらく、人はこのような夢は見ない。夢の中で、これは夢であるという確信を持つことはあるが、「不思議な事には」というような感想は抱かないはずだ。

    「現代的」な小説になればなるほど、もっと実験的な「夢」作品が書かれているが、冒頭で「これは夢であるのだが」とことわったうえで、「夢なのに、いやむしろ夢であるがゆえに、リアルだ」と感じさせる作品は、この漱石のショートストーリー10篇を上回るものがない。

    したがって、「これを上回る」ことを目指すべきだ。


    二者関係


    「対幻想」としようと思ったのだが、よけいにわかりづらくなるので、たんに「二者関係」とした。

    二者関係は複雑である。

    一人の内省には偶発性がなく、秩序立ったものになりがちだ。

    三者以上になると、これはすでに「社会」が成立しており、そこには「集団力学」と力動論的精神分析がよぶようなダイナミクスがあって、「解決」が容易になってしまう。

    「我と汝」は、社会がはじまるスタート地点であるが、社会未満である。

    「汝」に属することだと思っていたところのものが「我」に属していることが事後的にわかったり、その逆もしかりであったり、そこに存在していると思っていた「関係」が「我」の内面の投影に過ぎなかったり、対面していても知覚していることはそれぞれの鏡像=想像(images)に過ぎなかったりと、複雑化の要因に満ちている。

    複雑であるため、二者関係に関するもののうち「会話」は別項目にした。

    なかでももっとも複雑な二者関係が「母娘」である(と現時点ではみなされている)。

    「母娘関係」の基本テキストとも言うべき、角田光代の短篇集『マザコン』から「パセリと温泉」の一節を例示する。

    (この引用の前段、主人公の母親は胃がんで入院している。母は妄想と現実の区別がつかない状態に陥っている。母の妄想では、現在、温泉宿に泊まっていることになっている。昨晩は「ここのお嬢さんたちが踊りを披露して」くれたと言う)


     空腹はまったく感じなかったのに、気がつくとサンドイッチをすべて食べてしまっていた。酸っぱさだけが強いコーヒーを飲みながら、皿に残った一本のパセリを見る。

     レストランの料理に添えられているパセリを、絶対に食べてはいけないと、私が幼いころ母は言っていった。母はなぜか、添え物のパセリというのは、残した客の使い回しだとかたく信じていた。見てごらんなさい、こんなに乾燥してるじゃないの。母は、何か汚らわしいものに触れるようにつまんで見せたりした。食べてはいけない理由というのは、けれど幼い私にはよくわからず、パセリは食べものではないのだろうと理解していた。年齢を重ねても、ちょこんとのせられてくる添え物のパセリを私は食べることができなかった。それはもはや作り物のように思えた。

     今も私はこうしてパセリを皿に残している。しかし、パセリを食べてはいけないということと、温泉宿で旅館の娘の踊りを見たということと、どれくらいの違いがあるんだろうと今思う。ひょっとしたら今まで私は、母の妄想を聞かされて育ってきたのではないか。世界は悪意に満ちていると言い連ねてきた母こそが妄想を見ていたのであり、いまようやく、その悪夢から目覚めたのではないか。彼女が昨日から私に語る話こそ、現実ではないのか。嘔吐臭の漂う病室は、ひょっとしたら花の咲き乱れる庭に面した温泉宿の一室ではないのか。私はにわかに不安になる。私が今まで見てきた世界は、私自身のものだったのか、それとも、母親の目を借りて見ていた一枚の布地だったのだろうか。

     皿に薄い影を映すパセリを、私はそっとつまんで、口に入れた。もさもさした青くさいにおいが口じゅうにひろがった。

    (角田光代「パセリと温泉」『マザコン』所収)

    おせっかいついでに申し上げると、「母娘関係」をテーマに書くことは、非常にハードルが高い。一家言持つ読書人が大勢いるからだ。

    少しでも説得力を欠いた描写があれば、叩かれる。

    もし書くとしたら、小説よりもドキュメンタリーや心理学の(準)学術書を読み込んでからにしたほうがよい。ただしアダルトチルドレン系だけはダメだ。古い。

    母娘以外を題材に、二者関係を描きつつ(恋人同士とか)、このぐらい複雑に描けるなら合格だろう。


    家族


    いま母娘関係をあげたばかりだが、これにもう一者、つまり父親が入ってくると、近代家族になる。娘を息子に変えても同様。

    さきに述べたように、三者関係はすでに社会である。

    家族が、二者関係に比べて単純だということではない。複雑性はある。しかしその複雑性が、だれか個人の頑張りによって縮減されるのではなく、集団のダイナミクスによって一挙に成し遂げられるというだけである。

    その結果、幸福なケースでは、容易にそこから利益を得ることができ、不幸なケースでは、容易に誰かが犠牲者となる。

    家族をテーマにした名作は数え切れないほどあるが、ここでは「軽め」のものをあげる。

    向田邦子の短篇集『男どき女どき』から「鮒」。


    「あ、誰か来た」

     呟いたのは長女の真弓である。

    「いま台所のドアが開いた。間違いなし」

     わが娘ながら、塩村は真弓のこういうところが気に入らない。ピアノの教師に音感がいいとおだてられ、さ来年は音楽専門の大学へ入ると言い出してからは、ことあるごとに自分の耳のいいのをひけらかす。一軒おいた隣りの目覚時計の鳴りっぱなしが聞こえたの、石焼芋の売り子の声が変ったのと言い、塩村が聞えない判らないと言おうものなら父親を音痴扱いにする。

     見下されると依怙地〔いこじ〕になって、

    「誰も来やしないよ。そら耳だろ」

     と言いたくなる。その日は珍しく女房の三輪子も塩村の肩をもった。

    「誰か来りゃ声がするわよ」

     三輪子にしてみれば、たまさかの日曜日である。いつもゴルフだなんだとうちをあける塩村が小雨模様のせいか珍しくうちにいて、十一になる長男の守も加わって家族四人、水入らずで朝昼兼帯の食事が終ったところである。別に何がおかしいわけでもなかったが、笑い声もまじって話がはずんでいた。せっかく興にのったはなしを中断して台所を覗くのは勿体なかったのかも知れない。

    「真弓、お前耳が悪いんじゃないのか」

    「耳が悪いのはパパでしょ。笑う声だってひとりだけ音程外れてるんだから」

    「笑い声に音程があるかい」

    「あるわよ」

     真弓はプクンとした顔立ちで、あだ名を焼売〔シュウマイ〕と呼ばれているが、ムキになるとすこし三白眼になるところは母親の三輪子そっくりである。

    「嘘だと思うなら笑ってごらんなさいよ。パパだけ外れるから」

     釣り込まれて笑いかけ、気がついて、おかしくもないのに笑えるかと威張ったのがおかしいと、残りの三人が笑い声を立てた。日頃無口であまり笑わない守も笑った。一番大きな声で楽しそうに笑ったのは三輪子である。塩村も笑い、音楽のことは判らないが、日曜の昼、家族四人水入らずで笑い声を立てるのはどんな合唱よりもいいなあと思った。

    (向田邦子「鮒」『男どき女どき』所収)

    冒頭でいきなり、自分の娘を「気に入らない」という描写が出てきて、ショックを与える。

    しかしこれはあくまでも、「幸福な家族団欒」を表現している。

    「幸福な中にも潛む不幸」を表現しているのではなく、娘のことを、まるで子どもがクラスメートを「こいつのこういうところが気に入らないんだよなあ」と無邪気に言えるという、そのことそのものが、弛緩して破れることのない「幸福」の表現になっているのだ。

    「娘が気に入らない」という表現を思いついたからといって、家族の不和へと安直に結び付けないこと。

    幸福な家族を表現するために、ニコニコとした機嫌の良い言葉だけを選ぶ安易な方法をとらないこと。

    じっさい、この一家の平和のシーンは、これに引き続く、塩村の過去の不倫がひっそりと侵入してくるシーンとのコントラストをなしている。


    一瞬のできごと


    小説の力能のひとつに、時間の圧縮と拡張の機能がある。

    たった一文で何世紀もの時間を表現することもできるし、ほんの一瞬のできごとについて単行本を書くことだってできる。

    20世紀最大の文学作品、ジェームズ・ジョイス『ユリシーズ』は、ダブリンでの1904年6月16日という固有の一日を記録した作品だ。全18章からなり、日本語訳でもっとも入手しやすい集英社文庫版では4巻に分冊されている。たった一日のできごとが、18章の、4冊にもなる大長編文学になるということだ。

    こうした「小説ならではの」機能は、フルに活用したい。

    「一瞬のできごと」としたが、本当に分割不可能な、生成した時にはすでに消滅している《できごと》である必要はない。

    5秒でも30分でもかまわない。

    短い時間を、丁寧に、執拗に、執念深く書くこと。

    例として、同じく20世紀最大の文学作品、プルースト『失われた時を求めて』の冒頭部分を挙げる。有名なマドレーヌの香りのシーンではなく、本当に作品の冒頭部分だ。

    (手元にあるちくま文庫版井上究一郎訳から引用するが、現在岩波文庫から新訳が刊行されているので、そちらを手に取るとよいと思う)

     長い時にわたって、私は早くから寝たものだ。ときには、ろうそくを消すと、すぐに目がふさがって、「これからぼくは眠るんだ」と自分にいうひまもないことがあった。それでも、三十分ほどすると、もう眠らなくてはならない時間だという考に目が覚めるのであった、私はまだ手にもったつもりでいる本を置こうとし、あかりを吹きけそうとした、ちらと眠ったあいだも、さっき読んだことが頭のなかをめぐりつづけていた、しかしそのめぐりかたはすこし特殊な方向にまがってしまって、私自身が、本に出てきた教会とか、四重奏曲とか、フランソワ一世とカール五世の抗争とかになってしまったように思われるのであった。そうした気持ちは、目がさめて、なお数秒のあいだ残っていて、べつに私の理性と衝突するわけではなく、何かうろこのように目にかぶさって、すでにろうそく台の火が消えていることに気づかせないのであった。やがてそうした気持も、つかみどころがないものになりはじめた、あたかも輪廻のあとに、前生での思考がわからなくなるように。書物の主題は私から切りはなされ、私がその主題に熱中するもしないも、私の自由なのであった、まもなく私は視力をとりもどし、周囲が暗闇なのでびっくりするが、私の目には快く安らかな闇であった、目にもそうだが、私の精神にはおそらくもっとそうだったにちがいなく、何か原因のない、わけのわからないもの、まったく朦朧としたもののように思われた。(略)

    (プルースト『失われた時を求めて』)

    「略」としたように、まだ第一段落が終わっていない。

    これは主人公が、入眠から30分後に「もう眠らなくてはならない時間だという考」によって目を覚ましてからの、ほんの何秒か、という時間の描写である。

    ぼんやりと数秒の間、たった今見ていた夢の只中にあり(手に持っていると思い込んでいる本を置こうとする)、それから朦朧としながらも、周囲が暗闇であることに驚く、というまでのできごと(?)である。

    寝起きにこんなことまで考えたりするわけがない、などと思ってはいけない。知らないだけで、じっさい人は夢か現かというまどろみの中でこのぐらいの情報処理をやっている。

    夢の内容を語ることができるのは、レム睡眠から覚醒してほんの数分のことである。

    重要なのは、「夢の内容」として語ったことがらと、レム睡眠中に見た「夢」は、別のものだということだ。

    この引用をみると、「いったん寝て、30分ほど夢を見て、また覚醒して、ぼんやりとしている」という、わりと長い時間を描写しているように見えるが、よく注意してみると、最初の入眠は現在からみた過去についての記述であり、夢の内容について語っている(想起している)のは、目がさめてから数秒のことなのだ。


    静物


    静物については、ポットでも何でも、目の前にあるものを書けばよいのだから、もっとも題材に困らない。

    しかし、これを小説に仕立てるのは、おそらくもっとも難しい。

    保坂和志『カンバセイション・ピース』から。

     西から東に長く伸びている庭の入口から玄関にかけてのあたりは妻の鉢植えで、小さくて赤い花を咲かせるバラは葉も小さくほとんど円にちかい形をしていて葉の縁のギザギザも二メートルも離れれば見えず、バラと同じくらい小さな実のなる野生種のイチゴはいまでもポツリポツリと実をつけていて、今日はまだ取って食べるほどにはなっていなかったけれど、葉は春にまだ私が興味を持たずに見ていた頃と比べてあきらかに大きくなっていて、長円というよりも菱型みたいな葉が一ヵ所から三枚ずつ広がっていて、縁のギザギザが大きく葉脈もはっきりしていて、ホースの水があたるとその葉の群れが茂みがざわめくように揺れて、水のあたる葉の面積が広いので水と葉、葉と葉がぶつかる音がざざざざっとする。

    (保坂和志『カンバセイション・ピース』)

    みごとな一筆書きである。

    この句点がなかなかやってこない、粘着質の文体を読んで、村上龍を想起した方は多いだろう。「静物」というより「フェティシズム」といったほうがよいが(たとえば足の親指への執着など)『トパーズ』で村上龍がやりたかったのは谷崎潤一郎である。

    谷崎のマゾヒズム最高傑作は『春琴抄』だが、フェティシズム最高傑作ともいわれる「富美子の足」が収録されているその名も『谷崎潤一郎フェティシズム小説集』なるアンソロジーが出ているので、そちらを参照のこと。

    『トパーズ』を絶版にしている意味はわからない。二階堂ミホを思い出したくないから、という理由なら文学史的に面白いが、おそらくどの古本屋に行っても手に入るからだろう。


    会話


    「二者関係」のパートで、会話は別立てすると述べた。会話は会話で非常に難しいからだ。

    「人物」のパートで、会話が人物を描写する、と述べた。もっとも低レベルな小説だと、会話がほとんどの紙面を占める。会話はほんらい非常に難しい小説技法なのだが、書いている本人は楽なのだろう。当然そこにリアリティはない。作者の独り言にすぎない。

    「女子高生」「赤羽のチンピラ」「医者と看護師」「早稲田大学の軽音部」の会話を書きなさい、と言われて、すぐに書き始める人は、当事者であるか、うかつである。

    取材しなければ書けるわけがない。

    電車でICレコーダを回すのもひとつの手だ(バレないように注意せよ)。しかしこれで収拾した女子高生の会話が同時代的である保証はない。そのサンプルは、学校ヒエラルキーの底辺の女子高生かも知れないし、地方の女子高生が少し都会に出てきたところかもしれない。

    ただし、同じボキャブラリーを使えばいいというものではない。会話の逐語記録を作ったことがある方ならばよく知っているだろうが、会話を文字に起こすと、とたんに会話らしくなくなる。

    「会話らしさ」とは、我々が小説というメディアからあらかじめ受け取ったものであって、日常会話から発生しているものではない。


    サリンジャー『フラニーとズーイ』から、「フラニー」の一部を例示する。1950年代東部アメリカの名門大学生レーン・クーテルと、グラース家のフランシス・グラース(フラニー)の会話の一部である。

    (略)「どうして?」と彼女は尋ねた。

     レーンの顔に微かではあるが、水を差されたという表情が浮かんだ。「どうしてって、何が?」

    「その試論がちゃんと評価されないだろうと思ったのは、どうしてなの?」

    「そのことはさっき言ったじゃないか。ずっと説明していただろう。このブルーグマンってやつは、きわめつけのフロベール信者なんだよ。というか、少なくとも僕はそう見なしていた」

    「なるほど」とフラニーは言った。彼女は微笑んだ。そしてマティーニを一口飲んだ。「これはおいしいわね」と彼女はグラスを見ながら言った。「二十対一みたいなきつい配合じゃなくてよかった。そっくり全部ジンだったりするようなのは、あまり好きになれない」

     レーンは肯いた。「とにかく、その問題の小論は僕の部屋に置いてある。もし週末に暇があったら、君にそれを読んであげるよ」

    「楽しみ。是非読んでほしい」

     レーンはまた肯いた。「僕は何も、世界を震撼させるような、大層なものを書いたわけじゃない」、彼は椅子の中で姿勢を変えた。「でも――どう言えばいいのかな――彼がどうして、そう神経症的なまでにmot juste(適切な言葉)に惹かれるのかというところに僕が力点を置いたのは、悪い狙いじゃなかったと思うよ。つまりそいつを今の時代の、僕らが知っている光に照らしてみたわけさ。精神分析だとか、そういう見え見えなやつばかりじゃなくて、あくまで適切な範囲でほどほどにってことだけどね。言ってることはわかるよな。僕はフロイトの信奉者とか、そういうんじゃぜんぜんない。でもさ、物事によっては、『そういうのはあまりにフロイト的だから』といって、敬遠して見過ごす手はないんじゃないか。つまりね、ある程度までは、こう言っちまってまったく差し支えないだろうと、僕は考えるわけさ。トルストイやドストエフスキーやシェークスピアといった、そういうほんものの連中は、そこまで苦心惨憺して言葉を絞り出したりとかはしなかったはずだ。連中はただ心趣くままに書いたんだよ。僕の言う意味はわかるだろう?」、そう言ってフラニーを見るレーンの顔には、期待の色が浮かんでいた。レーンの目には、彼女は純粋な熱意をもって自分の話を傾聴しているように見えたのだ。

    「ねえ、あなたはそのオリーブを食べないの?」

     レーンは自分のマティーニのグラスにちらりと目をやった。それからフラニーの顔に視線を戻した。「いや」と彼は冷ややかな声で言った。「食べたいのかい?」

    「もしあなたがいらないのなら」とフラニーは言った。レーンの表情から、自分が場にそぐわない質問をしたことを彼女は悟った。更に具合の悪いことに、彼女は突然もうオリーブなんて食べたくなくなってしまった。(略)

    (サリンジャー『フラニーとズーイ』村上春樹訳)

    私の記憶では(つまり高校生のときに読んだ野崎訳の記憶ということだが)、「フラニー」は「ゾーイー」(野崎訳は『フラニーとゾーイー』というタイトルだった)に劣らず、サリンジャー節が炸裂しているはずだったのだが、20年以上たって、春樹訳を読んでみると、「フラニー」編がいかに優しく穏やかだったのかということに驚いた。

    「ズーイ」編は、グラース家の妹キャラ(というかじっさいに末っ子だが)フラニーと、このやっかいな妹さんをたしなめる優しい美貌の兄貴ズーイの兄妹愛情物語(サリンジャー版「俺妹」と言ってよい)なのだが、そちらのややこしさでサリンジャー節が炸裂する。

    皆さんが1950年代の大学生の会話を書けるはずもないのだが、おそらくサリンジャーにしたって、当時の大学生の会話を分析しているのでもない。

    サリンジャーは1950年代の空気をビンビンと感じ取っていて、彼が書くものは、当時の空気に熱狂的に受け入れられたというだけなのだ。

    会話だけで、このような小説的効果を発揮できれば合格だ。


    記憶


    日本語でかかれる小説は、なぜか過去形で書かれることが多いため、ほとんどすべての小説は「記憶」にもとづいている、かのごとく見えるのだが、それは間違いである。

    たんに習慣にすぎない。

    現在形で書くべきところを過去形で書きつつ、文脈や文体や「視点の移動」などで現在的なアクティビティを読者が感じとる、というプロセスが生じているだけなのだ。

    この「悪しき習慣」(あえて「悪しき」と言わせていただく)の磁力圏内で私たちは書かなければならないのだが、時制の話は、「記憶」とはまた別の話である。

    トレーニングとしては、記憶の断片をひねり出して、それをふくらませるか、詳細に想起するなどして、せめて400字以上の表現に練り上げる。

    これもおせっかいな忠告かもしれないが、記憶とはすべて捏造である。「記憶している」と我々が表現する時、行っているのは「想起」という行為である。

    過去にあった現実が、現実のまま貯蔵されているのではない。

    あたかも現実そのもののように思い込んでいても通常なんの不都合もないのは、たとえば筆記試験で紙の上に記した痕跡が、採点者にも「同じ言葉」として知覚してもらえる(コミュニケーションが成立する)、という事実の積み重ねによって、「記憶神話」を維持しているからだ。

    試験用紙が返ってきて、正解のマークがついていれば、「勉強したことが記憶として定着していたのだ」という「証拠」の機能を果たす、というだけのことである。


    三島由紀夫の最高傑作『仮面の告白』の、有名な冒頭部分を例示する。

    (略)

     どう説き聞かされても、また、どう笑い去られても、私には自分の生まれた光景を見たという体験が信じられるばかりだった。おそらくはその場に居合わせた人が私に話して聞かせた記憶からか、私の勝手な空想からか、どちらかだった。が、私には一箇所だけありありと自分の目で見たとしか思われないところがあった。産湯を使わされた盥〔たらい〕のふちのところである。下したての爽やかな木肌の盥で、内がわから見ていると、ふちのところにほんのりと光りがさしていた。そこのところだけ木肌がまばゆく、黄金〔きん〕でできているようにみえた。ゆらゆらとそこまで水の舌先が舐めるかとみえて届かなかった。しかしそのふちの下のところの水は、反射のためか、それともそこへも光がさし入っていたのか、なごやかに照り映えて、小さな光る波同士がたえず鉢合せをしているようにみえた。

     ――この記憶にとって、いちばん有力だと思われた反駁は、私の生まれたのが昼間ではないということだった。午後九時に私は生まれたのであった。射してくる日光のあろう筈はなかった。では電燈の光りだったのか、そうからかわれても、私はいかに夜中だろうとその盥の一箇所にだけは日光が射していなかったでもあるまいと考える背理のうちへ、さしたる難儀もなく歩み入ることができた。そして盥のゆらめく光りの縁は、何度となく、たしかに私の見た私自身の産湯の時のものとして、記憶のなかに揺曳〔ようえい〕した。

    (三島由紀夫『仮面の告白』)

    あの有名なエピソード「三島は自分が生まれる瞬間のことを覚えているらしい」という伝説はここからきている。

    でもその伝説は忘れよう。小説となんの関係もない伝説だ。

    科学的には、3歳以前の記憶は覚えていないか、想起することが不可能だとされている。理由は様々だが、各種研究の結果、3歳までの記憶が思い出されることはない、という事実だけは、確定している。

    この科学的事実から出発しよう。

    三島自身も、「有力な反駁」を、読者にとってもあまりにも明白と思えるような形で、きちんと提示している。「それでもこの記憶は俺にとってリアルなのだ」と言いたいのだ。この有無をいわさぬ迫力がなければ、記憶に頼った小説など、すべて無意味なのだ。

    つまり、この迫力こそがなければ、過去形でかかれたすべての小説は説得力をもたない、ということになる。


    課題


    今回、例として引用した文章は、古典に偏っていて、文体がいかにも古めかしい。

    それぞれの作品の価値はいささかも落ちることがないが、これをそのまま我々が使うわけにはいかない。夏目漱石が、この文体のまま、文芸誌の新人賞に応募しても、確実に落選する。

    そこで、あるていど自分のスケッチができてきたら、ここにあげた例を、自分流に書き換えてみてはどうだろうか。

    他人の書いた小説を、「自分ならこう書くんだけどなあ」と思えるようになれば、文体トレーニングはおおよそネクストステージにレベルアップしている。

    もちろん、文体の研鑽に、完成はありえないのだが。


    言及した文献

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