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    パクリトレーニング前編:3ヶ月で小説を書く方法(Week3)

    BeachPlane

    「3ヶ月で小説を書く方法」シリーズ、第3回。


    今回と次回は「パクリ」の技術について。

    書いていたら長くなってしまったので、前後編に分けることにする。


    このシリーズで主に元ネタにしている文献は、清水良典『2週間で小説を書く!』と大塚英志『物語の体操』の2冊である。

    私は若い時から「ライティング・ハウツー」ものの本をよく読んできた。それはもちろん、いかに効率的に(しなくてよい苦労をせずに)論文を書けるか、というニーズがあったからだ。

    論文に関しては、きわめて良質なハウツー本がたくさんあって、おおいに助けられたのだが、小説に関しては、上述の2冊しか、実利的には役立たなかった。「実利的には」というのは、「小説理論」「文学理論」のような、「理論的には」役立つ本ならたくさんあるからだ。

    これらに関しては、すでに学問として成り立っており、そういうものを知っているのと知らないのとでは、書くものに宿る厚みやヴァリエーションに雲泥の差が出るのは当然だ。

    しかし、「知っているからといって、小説が書けるようになる」わけではないのも、また当然である。


    余談だが、エッセイに関しては、ハウツー本がほとんど壊滅状態である。

    おおよそ、「エッセイの名手」によって書かれた名人芸の披露であるか(参考にならない)、「小市民的読書感想文レベルしか書けない者」によって書かれた小市民的馬鹿講義レベルである。

    すべてを網羅的に読んだわけではないし、むしろ積極的に読まないようにしているふしもあるのだけれど、読んでいて不快になるハウツー本が量産されている現状では致し方のないことである。

    エッセイはそれだけ難しいものなのかもしれないが、むしろエッセイは小説として書いたほうが話が早い。清水本に柳美里のなかなか良く出来ているエッセイが引用されているが、ほとんど自伝的小説といってよい。


    さて、清水本と大塚本(Week1とWeek2はそれぞれの本から1レッスンずつ盗用した)に掲載されている2つ目のレッスンは、共通して「盗作のススメ」である。

    清水本は「盗作」とか「パクリ」とかよりもっと穏当な言い方がなされているが、「小説の書き出しを他人に任せる」という発想は、まんま盗作のススメである。

    「いや、ミメーシスとか、もっと穏当な言い方があるだろう」という意見もあるだろうが、《表現や芸術はそもそもミメーシスを出発点としており、いまでも言語メディアを通した身体的・精神的ミメーシス(小説や詩の場合)、音声メディアを通したミメーシス(音楽の場合)が基本的には芸術体験の基板である》というような言明を読んで、即座に理解できる読者がどれほどいるのか、こころもとない。

    読者を馬鹿にしているわけではないが、知らないことは知らないし、知ったときに知っている状態になるというだけである。


    今回と次回に分けて、「盗作」「パクリ」のトレーニングを提示する。

    これができなければ、小説など書けるようにはならないと断言する。

    すべての小説はパクリだからである。


    便宜上、3つのレッスンに小分けした。

    順番にひとつずつ行ってもよいし、やれそうなものから取り組んでもよい。

    ただし、3つのレッスンをすべてやって欲しい。

    今回は第1レッスンと第2レッスン、次回は第3レッスンになる予定だ。


    3つのレッスンの共通ルール:2000字以上、40000字未満で完結させること。

    (40000字にあまり意味はない。たんに文學界新人賞の応募規定が400字詰原稿用紙100枚以内となっているからそうした)


    第1レッスン:そのまま使う


    これは清水本の「実践練習第2日 断片から書く」にあたる。

    清水本では、気に入った文章の断片をまるごと含めるか、そこから発想を広げて別の文章にする、という課題として出されている。後者については、次の第2レッスンで扱う。


    ここでは「まるごと含める」レッスンをしよう。

    途中に引用として含めてもよいが、「書きはじめ」に使うと効果的だ。

    なぜなら、小説にかぎらず、文章というものは、「書くと書ける」ものである――より正確に言うなら「書いてしまうと、続きを書くように自らが強制される」ものであるからだ。書きはじめてしまうと、小説は、書き続けられることが、自ずから決まってしまう。それがうまい結末に落ち着くかどうかは、筆者次第であるが。

    「書きはじめ」に他人の書いた文章を使うというのは、その意味で「ずるい」やり方だ。

    「そもそも盗作はずるい」という意味ではない。

    書きはじめに使うのは、「書き手がもっとも苦労する部分」(あるいは唯一苦労する部分と言ってもよい)を他人任せにするという意味で、ここでは「ずるい」と言っている。


    清水本では、ポール・オースター編の『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』から「鶏」が「断片」として引用されている。

    この『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』は、ポール・オースターが全米から収集した「実話」集なのだが、どのエピソードも、なぜかオースターが書いた完結した短篇のように読めてしまい、「さすがオースター」と錯覚してしまう、そういう本だ。

    各エピソードが完結しているため(「完成」していると言ってよい)、「出だし」としての使い勝手は悪い、ような気もする。

    しかし、「こんなふうに書けばいいのか」というように、アイディアを喚起するエピソードばかりであるため、純文学系の小説を書きたい方は、常備しておくのがよいのではないだろうか。


    清水本でも引用されている「鶏」の全文をここでも引用しよう。

     ある日曜の朝早くにスタントン通りを歩いていると、何メートルか先に一羽の鶏が見えた。私の方が歩みが速かったので、じきに追いついていった。十八番街も近くなってきたころには、鶏のすぐうしろまで来ていた。十八番街で、鶏は南に曲がった。角から四軒目の家まで来ると、私道に入っていき、玄関前の階段をぴょんぴょん上がって、金属の防風ドアをくちばしで鋭く叩いた。やや間があって、ドアが開き、鶏は中に入っていった。


    これは完結していながらも、想像力を惹起するという意味では、「書き出し」に向いている。


    私が選んだ、断片も提示しよう。夢野久作の(初出時は別ペンネームで書かれたと思われる)「蛇と蛙」という、「童話」の中の一篇である(三一書房版の全集には所収されているのだが、ちくま文庫版全集には所収されていない! ちくまはいい加減、この手の「全集」詐欺をやめてもらいたい)

     冬になると蛇も蛙も何もたべなくなって土の中へもぐってしまいます。

     秋の末になって一匹の蛇が蛙に近づいて、

    「どうだい。今までは敵同士だったが、もう君をたべなくてもいいから仲直りをして一緒の穴へ入ろうじゃないか」

     と言いますと、蛙は眼をパチクリさして頭をふりました。

    「嫌なこった。そんなことを言って来年の春あたたかくなったら一番に私をたべる積りだろう。私と仲よくしたいならふだんから私たちをたべないようにするがいい」

    これだけである。なにか足りない、とか、なにか付け足したい、と感じたら、想像力が惹起された証拠である。

    完結しているその作品に、蛇足をほどこしたくはない、という気持ちはわかるが、そこは心を鬼にして、むりやりにでも話をふくらませるのが望ましい。



    「断片」として使うのに適しているのは、小説からの文章に限らない。

    むしろ小説にはセリフがあったり登場人物の細かい設定が記されていることがあるために、使いづらいことが多い。

    ここでは「詩」の断片もあげてみよう。

    クリストフ・メッケルというドイツの詩人の「金魚」という詩の第一段落である。翻訳者は檜山哲彦。

    著作権が切れていないので、引用するときはそれとわかるようにすべきだろう。

    詩の引用からはじまる小説なんて、キザったらしくていやだ、と思うかもしれない。

    しかし「それとなく暗示する」ための引用ではなく、この引用が必然的であるような小説を書くならば、どうだろうか。

    月と水が好きになってから

    髪に金魚が棲んでいる。

    あきれた話しで、気がつくと、

    ほかのだれひとり

    こんなことはおこっていない。


    「詩」を題材にする、といえば、日本には俳句や短歌があるではないか。

    なにもあなたに紫式部になれと言っているのではない。ありきたりな俳句や短歌を題材にすれば、「もののあはれ」な平安文学になってしまいがちだが(だだしそのような解釈は近代的なものだが)、そうでない俳句を使えばよいだけだ。

    尾崎放哉の自由律句をいくつかあげる。

    「咳をしても一人」で有名な、遁世詩人。

    この「咳をしても一人」のように五七五のリズムにしたがわないために「自由律」といわれるわけだが、これを「風邪をひいたということを表現しているのか」とか「会社の同僚は助けにならないといいたいのか」とか解釈してはならない、ということは、尾崎放哉が仕事も妻も子も捨てて遁世した破滅型の詩人である、というコンテクストがあるからだ。

    あなたがそういうコンテクストをどの程度知っている必要があるかは、あなたが決めればよい。詳しく知りたければ、いまはWikipediaもあることだし。


    私のお気に入りの中から、「遁世時代」の二十一句を紹介する。


    つくづく淋しい我が影よ動かしてみる

    ねそべつて書いて居る手紙を鶏に覗かれる

    一日物云はず蝶の影さす

    雨の傘たてかけておみくぢをひく

    父子で住んで言葉少なく朝顔が咲いて

    蛇が殺されて居る炎天をまたいで通る

    ほのかなる草花の香ひを嗅ぎ出さうとする

    茄子もいできてぎしぎし洗ふ

    いつ迄も忘れられた儘で黒い蝙蝠傘

    古き家のひと間灯されて客となり居る

    夕べひょいと出た一本足の雀よ

    をだやかに流るる水の橋長々と渡る

    空暗く垂れ大きな蟻が畳をはつてる

    蟻を殺す殺すつぎから出てくる

    雨の幾日がつづき雀と見てゐる

    血がにじむ手で泳ぎ出た草原

    障子しめきつて淋しさをみたす

    庭石一つすゑられて夕暮れが来る

    今朝の夢を忘れて草むしりをして居た

    マツチの棒で耳かいて暮れてる

    何か求むる心海へ放つ


    もともと十句紹介しようとして厳選できず、二十句にしようとしてそれでも一句削れず、二十一句とした。

    たぶん尾崎放哉のような詩人の作品は、どれがグッとくるか、人によってまるで違う。だから多めに紹介した。

    想像力を掻き立てるツールとして有用であるため、私小説を書きたい方は『全句集』を手元に置いておくとよい。

    「私小説嫌い」を自負する方は、どれもグッとこないかもしれない。


    「詩」からはじめる方法は、次のレッスン2でも使える。


    第2レッスン:そこから発想をひろげる


    この第2レッスンは、第1レッスンのようにまるごとそのまま使うのではなく、読んで、掻き立てられた想像力を使って「ひろげていく」課題だ。

    第1レッスンの引用文(断片)を使ってもいい。


    この課題は「翻案」ということになる。

    これをやっていない小説家をみつけることの方が難しいだろう。

    以前、阿刀田高『短編小説のレシピ』を紹介したときに、「書き手にとって参考になる作家10」であるのみならず、それぞれの作家が、何を参考にして執筆したのかがわかるように書かれている点を評価した。


    たとえばここでは柳田国男『遠野物語』をあげるが、新田次郎「寒戸の婆」は、『遠野物語』の一つのエピソードを翻案して書き上げた小説だ。

    最近では京極夏彦が『遠野物語remix』『遠野物語拾遺retold』をたてつづけに書いている。

    かように、柳田民俗学は、想像力の源泉である。


    もちろん、日本的な匂いが嫌いな方は、グリム童話やギリシャ神話やその他西洋の口承伝説を原案にしてもよい。けっきょく「構造」が同じだから、そこは好きにすればよい(「構造」については次回の第3レッスンで扱う)。


    『遠野物語』から一話引用する。

    一八 ザシキワラシまた女の児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門という家には、童女の神二人いませりということを久しく言い伝えたりしが、或る年同じ村の何某という男、町より帰るとて留場〔とめば〕の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢えり。物思わしき様子にて此方へ来たる。お前たちはどこから来たと問えば、おら山口の孫左衛門がところからきたと答う。これから何処へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答う。その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思いしが、それより久しからずして、この家の主従二十幾人、茸〔きのこ〕の毒に中〔あた〕りて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子一人を残せしが、その女もまた年老いて子なく、近きころ病みて失せたり。

    柳田国男の著作に触れたことのない読者のために、おせっかいな解説をするなら、まず、『遠野物語』には〈柳田〉(エピソード収集者)と〈佐々木鏡石〉(エピソードの語り手)と〈登場人物〉という、三つの視点があるため、気をつけなければ、意味がわからなくなる。

    上の例では、「その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮せる豪農なり」というのは佐々木鏡石が言ったのを柳田が書き留めたものであって、登場人物が童女と会話している時点では、まだ豪農ではなかった(この童女が住み始めてから栄えた)。

    「さては孫左衛門が世も末だなと思いしが」というのは、登場人物がそう思った、ということ。つまり、登場人物は、ザシキワラシである女の児二人が、山口家から、何某家へ棲家を変える、という事を知って、予想することができた、ということである。

    また、匿名の登場人物はすべて「何某」になっているので、誰が誰だかわからなくなるのにも注意。


    上の引用(第十八話)に引き続いて、「茸の毒に中った」際の記述がなされているが、それを読んだうえで翻案するのもいいし、読まずに自分の想像力だけで書いてもよい。


    ところで、柳田国男といえば、一般的には「常民」(農民)の発見者、ということになっているが、「山人」(やまびと=アイヌ)を論じる方向性も確実にあった。

    盗作を勧めておきながら、いきなり倫理的なことを言うようで気が引けるが、柳田の記述する「山人」「山男」「山女」は、きわめて残虐で、そのまま真に受けてアイヌを差別的に描いたりしたら、大問題になるため、気をつけたほうがよいだろう。

    岩波文庫の『遠野物語』は『山の人生』という「山人考」も同時所収なので、精読してからがよいだろう。


    いずれにしても、「ちょっと不思議」なお話を書こうと思えば、柳田国男という巨大データベースがあるのだから、利用しない手はない。

    柳田以降の柳田批判も含めて、ひと通り揃えておくのをおすすめする。

    ちくま文庫版全集は中古で一気に揃えられるので、買うといいだろう(じつは私も持っていないので、どなたかAmazon Wishリストから私に寄付するとよいだろう。なにがよいのかは分からないが)。


    余談ついでに、柳田作品には「サンカ」が登場する。

    昭和史に残る「偽書」スキャンダルとして有名な、三角寛による「山窩(サンカ)もの」がある。山窩を題材に、ドキュメンタリー風に書き上げたフィクションである。世間は「ドキュメンタリー」として読んだが、後に考証されて、書いてあることがデタラメであることがわかった。それでも、世間が夢中になって読んだという事実はかわらない。

    柳田が死んだのは昭和37年だが、三角「山窩」が出版されたのが昭和41年。柳田という権威による監視がなくなってはじめて、「山窩フィクション」がひろく読まれるようになった、ということだ。

    ことし2014年に、「三角山窩」が文春文庫から立て続けに再刊されたが、解説にはちゃんと「偽書である」ということが述べられている。

    三角寛のエンタテインメント性を見習うべきだろう。

    もちろん、もっと「上品に」やりたければ、工夫すればよいし、山人と同様、差別的に書かないように注意すべきだ。



    来週は、「パクリトレーニング後編」だ。

    あらかじめ宮沢賢治「よだかの星」を読まれるとよい(構造の取り出し方の事例として使う)。


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