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    (承前)石原莞爾の恋文:宮沢賢治補遺

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    昨日の続き。


    (なお、石原莞爾のつま「ていこ」の「てい」は「金」へんに「弟」。機種依存文字かもしれないので、Windows以外の環境では文字化けするかもしれないのをお断りしておく)


    石原莞爾は、赴任先から、妻の銻子に、ほぼ毎日、《四百字詰原稿用紙で五枚を超える手紙を妻に送り続けた》(以下、引用は断りがない場合、中島岳志「石原莞爾 戦場から妻への恋文」『文藝春秋』2014.9月号より)。


    昨日引用した1920年5月の手紙では、妻にも国柱会に入会してもらいたい内心を伝えていた。

    国柱会本部は静岡県の三保の松原にあったが、夏季講習会に参加するように書いている。しかし銻子はなかなか同意しない。

    「三保の夏季講習会は七月八日迄に申込めといふて来ました(少々遅れて申込んでも差支へはありますまいが)。是非断行せられてはどうです」(同年六月三十日)

    「私も貴女も何も入りませぬ。只々二人が真実(ほんと)うに(中略)一体になって国の為仏に仕へて行けば夫(そ)れ以上の楽しみはないのですから」(同年七月五日)


    このように身内であれ誰であれ知り合った者を手当たり次第に折伏する布教を、田中智学は「侵略的折伏」とよんで、国柱会の根本原理とした。

    宮沢賢治の場合は、父政次郎を折伏しようとして失敗したエピソードばかりが語られるが、最愛の妹トシだけは国柱会に入会しているため、賢治とトシの遺骨は国柱会の霊廟に分骨された(賢治が遺骨を二つに分けると言い張って分けたという説がある)。トシとの近親姦関係はゴシップ的に語られがちだが――そうした言説の一部に「精神的近親姦」であって「肉体的」なものではないというものもあるが、そうした分節化に意味がないことはいうまでもない――国柱会に入会しながら、国柱会に友人を一人も持たなかった賢治にとって、唯一の「一体化」「合体」「結合」の現実的対象がトシだったこと、そしてトシを失ったことが、大きなインパクトを与えたことは想像に難くない。



    妻銻子は、石原による必死の折伏に、ついに参加することを決心する。

    「三保行の決心だそうですが、何よりです。私と同じくもう善につけ悪につけ法華経に一身をまかせてしまはれる事に御賛成でしたら国柱会に御入りになったらどうですか」

    「国柱会への入会は入会金丈け(私と同家族なことを申せば)でよい筈です」(同年七月十日)


    そして銻子は入会を決意する。

    私はとうとう参謀や其他多くの将校の前で、涙を止めることが出来なかったのです。人の手前も何もあったものではありませぬ。何時の間にやら全く牛込九〇番地石の門の中、三畳の茶の間の中に霊がさまよって居るのでした」(同年八月九日)


    こうした石原莞爾の様子になにも違和感を感じないとしたら、Wikipediaの石原莞爾の項目を読めばよい。もちろんエキセントリックなエピソードにはことかかないのだが、「軍人・石原莞爾」のじゅうらいのイメージからは、ややはみ出しているように思う。


    「私は妻として愛し観音様として敬ひます!!!」(同年九月七日)

    「法華経的の女! これが目下の日本に於ける第一の宝といはねばなりませぬ。銻ちゃん! 銻ちゃん! こそ此宝です」

    「銻ちゃん喜んで下さい。大丈夫です。私共夫婦のあるからには日本の前途は大丈夫です。どうぞ御安心下さい。南無妙法蓮華経」(同年九月十日)


    ほとんど「妻ヘのストーカー」とも言えるような暴走ぶりだが、とうぜん妻は、この愛に答え続けることができなくなる。

    1920年の末頃には、妻からの返事が来なくなった。


    「昨夜は懐かしい銻ちゃんの御手紙がとうとう来ないものですから、又例により昔の御手紙を繰り返して拝見しました」(一九二一年一月一日)

    「十月二十九日で御手紙が止まりになって居ます」(同年一月二日)

    「夢か現(うつつ)の間に、銻ちゃんの御手紙が汽車に山と積まれて、南へ南へと走って来る有様を見て、非常な喜びに打たれました。(中略)何回も何回も事務室に足を運びました。いよいよ御手紙が来ないことを知った時の落胆」(同年一月十一日)


    久しぶりに妻からの手紙が届く。しかし内容はよそよそしく、国柱会の活動にも熱心に参加していない様子だった。石原は妻を漢口に呼び寄せることにした。


    「せめて二月十六日、二月十五日は御一緒に!!!」(同年一月二十三日)


    2月16日は日蓮の誕生日で、クリスマスのようなものだった。

    妻は漢口行きを決意する。


    分れ分れて居た過去半年余は、正に私共の為め準備の時代でした。『分れ』により、私共はより深い信と愛を体得したのです」(同年一月二十五日)


    漢口からのラブレターは以上である。2月に銻子は漢口に来て、5月の帰国まで一緒に暮らす。

    軍人としての石原は出世街道をひた走る。1923(大正12)年からドイツへの留学を命じられ、ベルリンからも妻へ大量の手紙を送っている。しかし漢口からの手紙のような内容は少なくなる。

    1925年、銻子は国柱会の機関誌『天業民報』に手記を寄せる。「家庭生活に対して斯くありたいと思ふこと」というタイトルで、石原の理想を受け入れたことの決意表明になっている。銻は自分を「同心一体であるべき一分子」と規定する。

    「結婚生活そのものが人格と人格、愛と愛との結合的礎の上に建てられたもので有り、或は理解と努力に依って着々として築いた美しい殿堂であるならば夫の心は妻の心妻の心は夫の心となる以上、両者の主義、理想は唯一つに合致すべきものと思います」(『天業民報』一九二五年五月九日)

    「国民の教育の大半は家庭にあると信じる時、私共は乱れに乱れた今の世の中を慨嘆するにつけても、先づ個々の家庭そのものを寂光の本土化しなければならないと信ずる一人で御座います」(同前)


    「寂光の本土化」とは国柱会用語で、地上に極楽浄土を築くという意味だ。

    この間、宮沢賢治の妹トシが、結核で亡くなっている(1922年)。「永訣の朝」をはじめとする「無声慟哭」詩群を書いている。

    「銀河鉄道の夜」でジョバンニが持っている切符が「大きい緑いろの紙」だが、『天業民報』が緑色の新聞だったことから、この切符が『天業民報』のメタファーだという解釈がある。しかし「ほんとうの天上さへ行ける切符」と説明されるところから、これは田中智学が書いた曼荼羅であると解釈したほうがよいだろう。この曼荼羅は、「雨ニモマケズ」手帳では、例の「雨ニモマケズ」に引き続いて、詩の最終行であるかのごとく、記されている。



    妻の手記を読んだ石原は、ベルリンから手紙を送る。


    「民報此頃到着。銻子君の御寄稿を拝見す。此の如き妻君を持てる我身の幸運! 何と申すべき」(一九二五年日にち不明 ベルリン→東京)


    石原は1928(昭和3)年、中佐に任じられ、関東軍参謀として旅順に赴任。

    1931(昭和6)年9月18日、関東軍は満州鉄道を爆破して柳条湖事件を起こし、満州全土の領有を実行。石原は参謀としてこの事件を主導した。

    この年、宮沢賢治は東北砕石工場技師嘱託となり、宣伝販売を担当した。手帳に「雨ニモマケズ」を記したのもこの年である(11月3日)。


    石原は事件勃発の10日後の手紙では、コートの製作と「ソウェートロシア年鑑」「仏蘭西革命史」を発送するように頼んでいる。

    その翌月には次のような手紙を送る。

    「当地方目下静かになって居ますが事変の解決には恐らく数年を要すべく実に大日本国運の訣るるところ国民一致之に当るを要する次第」(同年十月十二日)


    国際世論は日本を非難した。しかしそれも石原にとっては、彼の思想が正しいことの証明だった。


    「連盟の態度悪化は日本の為にも良い結果をもたらしました。即ちこれによって政府及国内輿論が初めて一致したのです。どうせ満州問題の根本的解決は世界を敵とする覚悟を要するのだから連盟案は毫(すこし)も恐るるに足りません」(同年十月三十一日)


    1932年2月16日、つまり日蓮の誕生日に、石原は諸勢力(軍閥)を集めて建国に向けた会議を開催する。この会議の会場には「南無妙法蓮華経」の文字が書かれた垂れ幕が掲げられた。


    満州国をつくったあとの石原は、日中戦争の拡大に反対するなど、軍中枢と距離を置くようになり、1941年には予備役に投入される。そして立命館大学で講師を勤めていた1942年に、『最終戦争論』を刊行する。

    この本で、石原は戦争の歴史を「持久戦争」と「決戦戦争」に分ける。そして「東洋のチャンピオンたる日本」と「西洋のチャンピオンたるアメリカ」との間にいずれ決戦戦争が起こると予言する(といっても1941年から太平洋戦争ははじまっている)。


    「この大事業を貫くものは、建国の精神、日本国体の精神による信仰の統一であります。政治的に世界が一つになり、思想信仰が統一され、この和やかな正しい精神生活をするための必要な物資を、喧嘩してまで争わなければならないことがなくなります。そこで真の世界統一、即ち八紘一宇が初めて実現するであろうと考える次第であります」(石原莞爾『最終戦争論』中公文庫)


    「日本国体」も田中智学の造語である。

    ところで、宮沢賢治は1933(昭和8)年に急性肺炎で亡くなっているが(結核説もあり)、死の翌年には、宮澤家が出資して『宮澤賢治追悼』という草野心平編集による雑誌が出る。これは草野らの同人「次郎」の別冊という形で出版された。続いて(これもおそらく宮澤家の出資で)文圃堂から全集が出る。

    昭和12年には羽田出版の『宮澤賢治名作選』が文部省推薦になり、昭和15年には同羽田書店『風の又三郎』が文部省推薦図書に指定される。特攻隊員として戦死した佐々木八郎は、「烏の北斗七星」(これは『注文の多い料理店』の一篇として、生前に発表されている)の「不惜身命」への感動を記している。


    賢治と戦争を考えるうえでは、さらに、岩手が軍閥だったこと、盛岡が軍都だったことを考えなければならないが、それはまたの機会にするとしよう。


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