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    宮沢賢治補遺:先行する柳田国男

    朗読会

    9月20日(土)13:00~@郡山ホテルハマツロビー、朗読会に出る。きてね。入場無料。宮沢賢治作品が4作品読まれる。


    この朗読会で配られるパンフレットに掲載される、作家紹介と作品解説をぼくが書いているのだけれど、作家720字、各作品120字ずつ、という制限の中で、とうぜん「これは残して、これは削って」という作業をした。

    まずは書いたけれども字数制限によって削らざるを得なかった要素がたくさんあって、それを朗読会の前と後に分けてここに書こうかと思っていた(なぜ「後」に書くことがあるのかというと、ぼく以外の朗読者が作品をどう解釈して読むのかをぼくは知らないし、影響を与えるおそれを回避するためである)。

    思っていた、のだが、原稿を提出したあとにも、いろいろ変更しなければならない部分が見つかったり(もう原稿は出してしまっているのでパンフレットは修正されないバージョンで配られる。明らかな間違いがあればだいたい天沢退二郎のせいだと思っていただきたい)、もう少し詳しく調べないとならない部分があったりと、なかなか書き出せないでいた。


    もちろん朗読を聴く側にとっては作家と作品の解説なぞというものは、その場を楽しむうえでは、とくに役立たないものである。

    朗読者の朗読という解釈と、聴き手の解釈をたたかわせ、なるほどと膝を打ったり、それは違うと考えこんだり、好きに聴けばよい、というのがいちおうの建前だ。


    建前、なのだけれど、宮沢賢治という作家に限っていえば、「作品のみ」を「書かれたコンテクスト」あるいは「(賢治の死後)読まれたコンテクスト」から切り離して「鑑賞する」、ということが許されないということを、ぼくは強調しなければならないと、つくづく感じている。

    それでも、パンフレット用に送った原稿も、それなりに「コンテクスト含み」の面でがんばってはいるのだ。

    たとえば、宮沢賢治を世に広めた人々(宮沢清六から天沢退二郎にいたるまで)は、国柱会との関係をなかったことにしようといろいろと苦労したようだが、田中智学による日蓮主義を前提にしなければ、宮澤賢治の書いたものはまるで意味をなさないことは言うまでもない。

    こんなことは日本人として常識的なことなのかもしれないけれど、おそらく1996年の生誕100周年ぐらいまでは、あるいは宮沢清六が死ぬ2001年ぐらいまでは、暗黙の了解のように「なんとか脱色しよう」という意図に貫かれていたようにみえる。

    賢治を批判する論者が許されなかったというわけではない。賢治批判はいくらでもみつかる。

    しかし大正期から昭和にかけての日本社会のあり方と宮沢賢治の受容のされ方を、包括的に批判するような試みは、ほとんどなかった。吉田司の『宮澤賢治殺人事件』にしても、1997年に出版されたとはいえ、「聖人君子としての宮沢賢治」というイメージに対する「殺人」でしかない。

    おおよそ、その当時にはすでに多くの「賢治マニア」には知られていたようなことであって、たぶん「うん。知ってた」という読まれ方をしたのではないだろうか。まあ、必要な本だとは思うけれど。


    それで、パンフレット用原稿には「法華経の影響」ということを隠さずに書いたつもりでいた。のだが。どうも、あれでもまだ、生ぬるいというか、いろいろ間違ってたみたいだ(かんたんにいえば「法華経の影響」というより「田中智学の影響」といわなければならない)。

    しかしまあ、浄土真宗の宮澤家(岩手で第2位の納税者だった)の父に改宗を迫って家出したエピソードを書いた程度にはがんばった(いや、そんなのは年譜に書いてあるんだけど)。

    家出してすぐに父が迎えに来てそのまま関西旅行に行った話とかも、ほんとは象徴的なんだけど、削らざるを得なかった。

    「エコロジスト賢治」っていう通俗的イメージには、父に山林を買って石灰工場をつくるように勧め、そこで技師として雇って欲しいと書簡を送ったエピソードで対抗できるだろうが、これも書けなかった。



    そういう修正のなかでも、最近知ったのは、明らかに柳田国男の影響下にあったという事実だ。

    賢治は佐々木喜善と交流があった。

    この佐々木喜善のペンネームが佐々木鏡石である。

    『遠野物語』は《この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり》ではじまるが、その人である。

    Wikipediaによれば賢治の「ざしき童子(ぼっこ)のはなし」を佐々木が自著にて紹介したいとの書簡を賢治に送ったことがきっかけのようだ。


    そういや、今年、兵庫の福崎町(柳田の出身地)で「第1回柳田国男検定」なるものが行われた。

    賢治が「殺人」されるよりも(これは非常に難しい課題だと思う)、もっと速いスピードで、柳田は殺されていくのだろうと、うなだれるばかりである(もちろん柳田国男なんてものは三角寛にでも食われてしまえばよいのだ。奇書として有名な、三角の山窩シリーズは、今年文庫化されている)。


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