Entries

    マンガと源氏物語(赤塚不二夫編)

    長らく『源氏物語』のイメージを支配していた(おそらく今でも)のは大和和紀の『あさきゆめみし』だと思う。

    さいきん『あさきゆめみし』のなかの数巻が本棚からみつかったので(全巻はみつからない。2011年の地震の時に書斎の本が完全シャッフルされてしまったのでどこに何が埋まっているのか、検討もつかなくなってしまった)、ちょっと眺めていたのだけど、昔読んだ時よりも「これは、いまの高校生とかには難しいんじゃないか」と感じた。

    塾講師をしていたときに、高校生の国語の「裏」カリキュラムは「大和源氏」を読破する、というものだったのだけれど(受験古文の再頻出が源氏物語だから)、いまの高校生には出だしから難しいんじゃないかなあ、と思う。

    『源氏物語』の出だしは、いちおう、いまの日本の古典教育では「画期的な出だしである」ということを教えることになっている。それまでの物語作品の出だしは「今は昔」がほとんどだったのに、『源氏』は「いずれの御時にか」(なんという帝の御代のことでしたか)と、ぼかしつつも読者に特定の天皇の名前を想起させる(たいてい醍醐天皇)ことを狙っていて、読者をひきこむテクニックをつかっているのが「画期的」だということだ。

    これは現代の読者にはそもそもわかりにくいため、大和和紀は主人公=光源氏のナレーションから入るという手法をつかっている。

    昔読んだときには気づかなかったのだけれど、大和源氏は、あらゆる箇所で、現代人向けの「工夫」をしている。

    たとえば桐壺帝が桐壺の更衣をなんでことさらに寵愛していたのかは原文にははっきりと書かれていない。「前世での契りが深かったのだろうか」みたいなぼかしが入るのみ。大和和紀は、他のエピソードからモチーフをもってきて(「猫」「絹衣」「天女」)、バッチリこのふたりの「出会い」のシーンを描いている。もともと『あさきゆめみし』はハイティーン向けの雑誌『mimi』に連載されたもので(後に『mimi Excellent』)、男女が愛しあうには「物語」が必要だったのだろう。


    昔読んだ時には、「顔がみんな同じで分かりにくい」とは思ったのだけれど(Wikipediaをみたら、連載当時からそういう読者の意見が多かったらしい)、いまみると、また違った「分かりにくさ」があった。

    冒頭の光源氏のナレーションのページをめくると、桐壺の更衣と桐壺帝はまだ出会っていない。ということは光源氏はまだ生まれていない。

    そもそも冒頭の「私は母を知りません」というナレーションが光源氏のナレーションであるということも明記されていない。この「私」が光源氏=主人公だということがわかれば、「まず母の生前のエピソードからはじまるのだな」とわかるのだが、そうでなければ、登場人物はほとんど名のらないので(物語が進むにつれて、呼びかけのさいに「葵の上」「紫の上」とかがつくようになる)、誰が誰なのか、よくわからなくなる。


    おそらく『あさきゆめみし』を読む読者は、おおまかな『源氏物語』のストーリーを知っているのが前提なのだと思う。かつて読んだ時に、こういう「分かりにくさ」に気づかなかったのは、「自分が読む」のを前提に読んだからだと思う。

    いまぼくは、「教える」立場で読もうとしている。だから可能な限り、無用なわかりにくさを排除したい。

    そうすると、コミカライズ版でいうと江川達也版がよさそうだが、7巻で終わっており(「紅葉賀」まで)、全体を俯瞰できないのは痛い(おそらく打ち切られたのだろう)。


    ところで、ぼくの住む町のほんとうに使えないクソ図書館で、赤塚不二夫がマンガ部分を担当している『源氏物語』をみつけた。

    完全にコミカライズしているということではなく、ページの上段に原文と対訳、下段にマンガによる解説、という構成なのだが、これがなかなか面白かった。


    まず「この世のものとは思えないほど美しい男の子」である光源氏を、赤塚不二夫はこう描いている。

    光源氏


    おそ松くんのイヤミじゃないか!(笑)


    しかし確かに、こう描いてくれると、人物のみわけがつく。

    助かる。


    『源氏物語』の有名なシーンに、桐壺の更衣が他の女御からいじめをうけるシーンがある。『あさきゆめみし』では、次のように描かれている。

    あさきうんこ

    渡り廊下に糞尿が撒き散らされているということはわかるのだが、それでもなぜか品がある気がするのはなぜだろう(笑)。

    これが赤塚版だとこうなる。


    赤塚うんこ

    わかりやすい!


    そういえば、先日末摘花の与謝野晶子による描写について書いたけれど(与謝野訳は糞尿を書いてないんだよなー、潤一郎訳は書いてるのに)、末摘花は『あさきゆめみし』ではこう描かれている。

    末摘花

    これを初めてみたときは、面白くて笑ってしまったのだけれど、赤塚不二夫の末摘花をみた今では、これでも上品にみえてしまう。

    赤塚版はこう。

    末摘花

    原型をとどめてねーじゃねーか!!!

    (「原型」というのは「象のような鼻」という原文の描写)


    末摘花をどう描くか、という点に、多くの後代の翻訳者たちは、最大のエネルギーを注いでいる気がするのだが、なぜなんだろうか。

    江川達也版末摘花も凄まじかったらしいが(ぼくは実はまだみていない)。


    関連記事
    スポンサーサイト
    この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
    http://orangeprose.blog.fc2.com/tb.php/1192-65a43f5b

    トラックバック

    コメント

    コメントの投稿

    コメントの投稿
    管理者にだけ表示を許可する

    Appendix

    counter

    FC2ブログ

    ブログ

    リコメンド




    ノートンインターネットセキュリティ


    ブログランキング

    QRコード

    QR

    メールで更新を受け取る



    提供:PINGOO!

    ブロとも申請フォーム

    この人とブロともになる