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    GODZILA ゴジラ:文化的欲望と荒御魂

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    2014年版のGODZILLAをみた。

    まだみていない読者のために、これ以上のネタバレを避けてもらうためにも、いくつかの情報のみを列挙しておく(ここからネタバレになるよ、という箇所にきたら、アナウンスする)。

    まず個人的結論:やむを得ない事情で3D吹き替え版をみてしまったが、字幕版でもう一度観たい。やはり劇場で観たい。


    欠点はいくつかある。

    (1)細部へのこだわりが、偏執的にこだわっている部分と(脚本の最終改訂を行ったフランク・ダラボンは自ら「初代ゴジラ原理主義者」といっている)、ほとんどB級からZ級にランクダウンしてしまうのではないかというぐらい甘い部分と、落差が激しい。

    とくに日本の(そしてとくに福島県に住んでいる我々の)目からみると、「放射線による汚染がなされていない」ことの表現として、ガイガーカウンターを出したら数値が「0.00μSv/h」だった、などという甘さは気になる。とくに今回のGODZILLAは、ヒロシマナガサキ・太平洋での米ソ核実験・東日本大震災と津波・福島第一原子力発電所事故、などをもれなくテーマにし、しかもそれぞれのデリケートな問題について極めて慎重かつ戦略的に扱っているだけに、「おしい」と呟いてしまった(自然放射線だけでもおよそ0.054μSv/hはあるはずだし、ガイガーカウンターの小数点以下が二桁しかないというのも、そういう機種もあるかもしれないけれど、われわれ福島県民が日頃手にするものとは異なっている)。


    (2)(日本語吹き替え版でみてしまった場合)声優の配役がおかしい。それと字幕がないと意味がわからない部分も多い。

    声優のベストチョイスとしては、ステンツ少尉の佐々木勝彦がよい。声優として活躍しているだけでなく、俳優としても有名な佐々木は、ゴジラシリーズにも出演しており、おそらく「いかんともしがたい事情で吹き替え版をみる羽目になったゴジラファン」に対するサービスの意味もあるのだろう。

    一転、この「日本語吹き替え版」というまるで別の作品の水準を奈落の底に叩き落としてしまったのが、主人公の妻の声を波留がやっていることだ。テレビ俳優として活躍する彼女は、声優をするのはこの作品が初めてのようだ。この手の「タレントの声優起用」は演出上の意図がない限り致命的なダメージを作品に与える(宮﨑駿はそれでも成功している方だけれど、完全にうまくいくのはまれである)。

    主人公のフォード役を小松史法がやっているのだが、彼の妻があまりに魅力がなさすぎて、「無事帰ってくれ!」という感情移入ができない。いまやってるジョジョでポルナレフ役を怪演しているあの小松史法だということを、ぼくは帰ってからWikipediaで初めて知ったのだが、そのぐらい、パートナーによって無個性化されてしまっている。主人公の家族というのはアメリカ映画にとっては非常に重要な要素なのだが、「どうせゴジラに踏み潰されてあっけなく死ぬんでしょ、この人たち」と思っている連中が最後まで画面に映り続ける違和感が、やはり、B級からZ級に落としかねないウイークポイントになっている。

    字幕に関しては、英語圏の人びとが"GODZILLA"と"GOD"のニュアンスを持たせて発音しているのに対して、芹沢博士(渡辺謙)は"Gojira"と一貫して発音しており、この差異が重要なテーマでもあるのに、全部日本語で「ゴジラ」と言われてしまっては、意味がわからない。

    これについては、渡辺謙が現場で英語風の発音でよぶことを拒否しまくったというエピソードがあるが(渡辺は脚本執筆の場でかなりの発言権を得ていたようだし、日本の震災・津波を描くことにどう配慮すべきかという監督の相談にも責任をもって答えたようだ)、初代ゴジラの由来である大戸島の伝説の怪獣「呉爾羅」として日本人はゴジラをみていることの表現である、という設定のようだ(ちなみに「ゴジラ」の本当の由来は「ゴリラ」と「クジラ」の合成語だというのは、ファンの間では常識である)。


    さてそろそろネタバレも含むレビューに入っていくが、もう少し予習しておきたいという方は、Wikipediaがわりとまとまっているので、みておいてもいいかもしれない(ネタバレにはなるが、ぼくのよけいな解釈が前提にあるよりは、マシだろうと思う)。


    映画をみてきたら、上記Wikipediaの記事と、ふたつの対称的なレビューを読むとよい。

    前者は、熱く、かつ的確なレビュー。後者は、典型的な老害。花田紀凱が言っている「イラストレーター」は「怪獣絵師」で知られる開田裕治。開田裕治に対して「怪獣映画を見たことがあるのか」などとのたまう老害ぶりに、ぜひ頭を抱えて欲しい。




    さて、ここからネタバレを含むレビュー。真正面から受けとめて正統派のレビューをしているひとはたくさんいるので、安心して斜めからみるレビューを書ける。



    一言で言うなら、デジャヴに満ちた映画である。

    もうすこし言うなら、この映画には、アメリカの欲望の対象がつまっており、そしてその欲望はオリエンタリズムの美的対象としての日本に相変わらず投影されており、なおかつ「その欲望を欲望する」われわれ日本人、という構図が反復されている。

    どういうことか? 本作の時系列に沿ってみていこう。


    この作品では、ゴジラとムート―の戦いの舞台が、日本・ハワイ・アメリカ西海岸と移動する。すべての舞台でアメリカ軍が干渉するのだが、例によって軍隊の装備は怪獣たちにはまるで効果がない。「こいつらいないほうがむしろ被害が少くて済むんじゃね?」という感覚も、日本版ゴジラに忠実でよい。が、ステンツ少佐率いるアメリカ軍の方針と芹沢猪四郎博士(初代ゴジラの芹沢大助博士とモスラの監督本多猪四郎が由来である)の方針の違い、というのも大きなテーマなのだろうから、いないと話が進まない、という違いはある。


    映画の冒頭は、芹沢博士がフィリピン諸島を訪問するシーンからはじまる。

    (おそらく)ウランの発掘作業中、地盤が沈下して放射線濃度も10倍にはねあがる、という怪現象が起きる。地中には「なにか」の化石と、そこに寄生する「なにか」がある。映画ではわかりにくい設定だが、ムート―は放射性物質を食料としており、体内に原子炉をもつゴジラに寄生する。古生代ペルム紀からゴジラとムート―は争う運命にあった、という前提をおさえておこう。


    まず日本。

    架空の都市「ジャンジラ市」の原子力発電所で、1999年に事故が起きる。配慮のうえ架空の名前がつけられているが、明らかに福島第一原子力発電所をモチーフにしている。ただし、アメリカが想像する「フクシマ」であって、日本人がみたら福島の風景にはみえないだろう(あんな高層ビルが立ち並ぶ都市なわけがあるか)。

    アメリカ版ゴジラの1作目、エメリッヒ監督版のGODZILLAではフランス人諜報員のジャン・レノが「フランスの核実験の責任への負い目」を感じてゴジラ退治に奔走するが、今作ではジュリエット・ビノシュ(主人公の母親役)が第一の被害者になる。

    舞台は事故から15年後の2014年に移るのだが、主人公フォードの父、ジョーが日本で逮捕されたとの連絡が入り、フォードは幼少期に過ごした日本にわたる。フォードは、目の前で妻(フォードの母)が死んで以来、父親は気が狂ったと思っている。父ジョーは、1999年の事故以来立ち入り禁止区域に指定されている区域に無断で侵入して逮捕された。父ジョーは、地震とそれにともなうメルトダウンによる事故だという公の発表を信じていない。釈放の身元を引き受けたにもかかわらず、フォードはジョーの説得を受け、ふたりで侵入を試みる。立ち入り禁止区域内で、ジョーはガイガーカウンターを取り出す。放射線量はゼロであり、「やっぱり!」と防護マスクをはずす。

    怪獣がなにかの暗喩以外ではありえないとしたら、この時点では、福島の事故に対する海外の一般的な「不安」を象徴しているだろう。福島県民が他県民の過剰な反応を滑稽に感じるのと同様、日本に住んでいると、海外からの原発事故に対する反応やイメージが滑稽に感じることがあるだろう。海外では、福島県全域でもはや人が住めない状態になっていると、一般的には認識されている。ぼくじしん、安倍晋三の「完全にコントロールされている」発言には「嘘を言うなよ」と思うし、事故収束に向けての各国の協力を拒否する方針には「そんなこといってる場合かよ! 全人類的な問題だろ、これは」とも思う。そうした態度は「過小に情報を報告しているのではないか」という疑念を生じさせるのに十分であろう。もちろん、他国の協力をつっぱねるのは、原子炉メーカーの技術流出を防ぐという経済的配慮なのだろうとは思う(といっても1号機はアメリカGE社製だが、3号機は東芝製)。が、「大衆的な不安」も理解はできる。


    ところで、1999年の発電所崩壊のシーンや、2014年の廃墟化したフクシマのシーンは、ぼくにとってはデジャヴである。ぼくが少年時代にさんざん空想した「未来の福島」の光景だった。ぼくは1980年代(中学生ぐらいだと思うけれど)、浜通りの原子力発電所が「爆発」して、中通りあたりまでが「クレーター化」して「焼け野原」になることを予想していた。それいらい、「東京に逃げる」ことが人生のファーストプライオリティになった。そしてじっさい、1993年には大学進学と同時に、東京に逃げた。しかし、はじめにデジャヴが訪れたのは、福島を舞台にしたものではなく、1995年、阪神淡路を舞台にしたものだった。さらにその2ヶ月後、地下鉄サリン事件が東京で起きた。サリン事件が起きた日、ぼくはちょうど実家に帰省していて、そのときの恋人がちょうどその日に恵比寿で友だちと落ち合う約束をしていたから、日比谷線に乗りあわせてはいないだろうか、と心配になった。電話をして、無事であることを確認して、ぼくにとっての地下鉄サリン事件は、そこで終わった。

    オウム真理教の事件は、2重の意味で、絶望感を人びとに与えたといえる。

    ひとつには、世紀末の「ハルマゲドン待望欲望」が、オウム真理教のようなとてもしょぼい形でしか実現不可能であると、すなわちハルマゲドンはないと、日本人に知らしめてしまったこと。

    ふたつには、「核戦争後の荒廃した新世界」が、そのイメージのオリジネイターであるはずの(「マッドマックス」)欧米人の元には訪れず、そのシミュレーションを行った日本人(「北斗の拳」よりもおそらく「AKIRA」「攻殻機動隊」が海外では有名)の元に、「カルト教団によって、失敗した形で」というよりソフィスティケートされた形で訪れてしまったということ。

    前者は単純に「核戦争後の共同性」という輝かしき未来の「敗北」という形で宮台真司に要約されたことに尽きるだろう(『終わりなき日常を生きろ』はその点では本人が言うほど「間違い」ではない)。

    後者はひねくれている。「AKIRA」も「攻殻機動隊」もあまり「日本的なもの」という意匠はまとわずに欧米でも消費されたはずなのだが、これらを模倣するハリウッドは、明らかに日本をオリエンタリズムでみている。

    「ジャンジラ市」の退避地区、廃墟と化した高層ビルに蔦が絡まり、雑草が生い茂るイメージは、ゲーム「The Last of Us」とほとんど見分けがつかない(同ゲームはSonyのPlayStation3用ゲームだが、製作はカリフォルニアのノーティドッグである)。

    Last of Us

    「The Last of Us」はもちろん、アメリカで作られたアメリカ的なゲームであり、ノーティドッグの「アンチャーテッド」シリーズ同様「洋ゲー」(海外のゲーム)として日本では消費されている。

    「The Last of Us」は「バイオハザード」同様、「パンデミック物」だが、パンデミックというモチーフは、「核戦争が起きなかった」というトラウマを乗り越えて獲得した代替イメージにすぎない。

    「ブレードランナー」を「ブラック・レイン」が模倣したことが、アメリカの欲望を表現しているだろう(同じ監督だが)。「ブレードランナー」のイメージに新宿歌舞伎町が取り入れられているのは、リドリー・スコットが歌舞伎町に刺激を受けたことがきっかけだが、「ブレードランナーの中の歌舞伎町(=日本)」を、「日本」を舞台に再現したい、という欲望に駆られてつくられたのが「ブラック・レイン」だったといってよい。そして、それらの作品中で描かれた「日本」を、日本の想像力がさらに模倣してゆく。これが「他者の欲望を欲望する」日本の立場に対応している。

    次にハワイ。

    ジャンジラ市で管理されていた「何か」は、ゴジラではなかった。ムート―とよばれる。芹沢博士はムート―が何ものかと交信していたことを確信する。

    東へ向かったムート―は、ハワイに上陸するが、そこでようやくゴジラがあらわれる。しかしまるでたんに通過するだけであるかのように(じっさいそうなのだが)、ハワイを後にする。

    ハワイで描かれるのは、津波である。同シーンをみて、東日本大震災を想起しない日本人がいないのと同様、おそらく世界中で同震災が想起されるだろう。

    ここにも、想像力の源泉が、「日本に奪われている」という、アメリカのプチブル的な嫉妬=羨望があらわれている(これはしつこいぐらい繰り返したほうがいいと思うが、震災や津波といったデリゲートな問題を描くことに関して、製作者たちは十分に配慮している)。

    この「私の欲望が盗まれている」という妄想は、ラカン=ジジェク的な意味で「欲望」の本質である。アメリカの文化的欲望は、日本に「あらかじめ奪われている」。

    瑣末な例だが、アメリカの気象予報士スコット・スティーヴンズは、ハリケーン・カトリーナについて「日本のヤクザが原爆投下への報復として人工的に作り出した」と述べて、テレビ局を退職している。一笑に付すべき「トンデモ」理論にみえるが、東日本大震災にさいして、「人工地震兵器」という単語がTwitterを飛び交わなかった日は、震災以降、1日たりともないだろう。

    社会学=システム理論的にも、社会心理学的にも、あるいは精神分析的にも、かような「想像力」は、たんなる切断操作cutting-off operationであり、防衛機制にすぎないが、もしそうした「馬鹿げた妄言」を目にして「こいつは頭がオカシイ」と我々が「判断」できているとすれば、それは我々がたんに、おかしな彼らという切断対象を発見することで防衛しているにすぎない。


    最後に西海岸。

    ここで再現されるのは、アメリカ同時多発テロである。

    911以降、建築物の爆破シーンでは、すさまじい粉塵が巻き起こることを描かざるをえなくなった。誰もそれまでは、高層ビルの爆破は、映画の中でしか見たことがなかったから。

    ところで911というモチーフについては、どう考えればよいのだろう。

    911は、アメリカで起きたのだから、「アメリカが所有している想像力の源泉」ではないか?

    しかし、あの事件をテレビ中継でみていた我々が口にした言葉は、「すさまじい。まるでハリウッド映画を見ているようだ」ではなかっただろうか。

    まず単純に言えば、911という想像力の源泉は、「ハリウッドによってあらかじめ奪われていた」のであり、テロリストが行ったのは、現実世界を舞台にした「上演」なのである。

    さらにいえば、911が露呈したのは、「文明」の衝突であって、「文化」的な要素がないにもかかわらず、アメリカが受けた外傷は、「文化」のレベルにおいてであったという事実に注目しなければならない。これはまるで湾岸戦争の再現である。ボードリヤールの分析でもっとも「冴えた」ものである(とぼくが個人的には思っている)「湾岸戦争は起こらなかった」において、ボードリヤールは、「湾岸戦争」という固有名で名指される「できごと」において、イラク軍は何の抵抗もなしに戦闘は終わり、10万のイラク兵の死体はどこかへ消えてしまい、壊滅したはずの大統領警護隊は元気になってクルド人とシーア派イスラム教徒の殺戮をはじめ、サダム・フセインは相変わらず健在じゃないか、衛星中継で見せられてきたのは戦争ではなかったのだ(ポスト戦争とでもいうべき、べつのなにかであって、それは「戦争/非戦争」という存在論的把握を無効化したできごとだった、と敷衍できるだろうか)、と分析する。

    911のとき、ブッシュは「報復戦争」と言った。実際に、アフガニスタン紛争がはじまった。砂漠ばかりでなにもない地域に、なんの意味があるのかわからない爆撃をした。「敵」に向かって殺傷力のある攻撃をし、「敵」も「こちら側」に向かって同様の攻撃をするのが戦争だとしたら、あれは戦争だったのだろうか? ビン・ラーディンの殺害に10年もかかったのは、戦争が長びいたからなのか? そもそもアルカーイダの殲滅を目的としていたはずなのに、いまではアルカーイダがそこから分派したISISよりも穏当にみえるのはなぜなのか。というかアルカーイダ殲滅は諦めたのか。この一連のできごとは、「存在論的な意味での戦争」がありえなくなった世界の到来を断言していたボードリヤールが正しかったことを証明しているだけではないのか(ぼくはこの一点においてのみ、というのは言い過ぎであるとしても、ボードリヤールを評価している。彼の消費社会の分析などは陳腐であり、シミュラクルの分析だけが正しかったのだ)。


    911に寄せたジジェクの"Welcome to the Desert of the Real"(「現実界の砂漠へようこそ」)という論文で(このセリフは「The Matrix」でモーフィアスがネオに告げるセリフであるのは言うまでもない)、次のように言っている。


    というわけで、世界貿易センタービル爆破はわれわれの幻想の球域を打ち砕く〈現実界〉の侵入であったという、標準的な解釈に背を向けるべきだろう。まったく逆に、われわれが現実に住まっていたのは爆破以前のことだった。第三世界の恐怖はありがたいことにわれわれの現実の一部ではなく、(テレビ)スクリーンの上の亡霊のごとき幻として(われわれにとっては)存在しているなにかであると思っていたのだ――そして9月11日に起こったこととは、このスクリーンの上の幻想が、われわれの現実(つまりなにを現実として体験するかを決定する象徴的座標)に入ってきたということである。9月11日以後、世界貿易センタービル崩壊に似たシーンのある多くの大作映画が、封切りを延期された(お蔵入りになった場合すらある)が、これこそ世界貿易センター崩壊の衝撃に責任がある幻想の背景の「抑圧」として解釈すべきだろう。もちろん肝心なのは、世界貿易センタービル崩壊を、またも登場したメディアのスペクタクルであるというように矮小化する擬似ポストモダンゲームをやらず、それを殺人ポルノの破滅的なかたちとして読むことだ。9月11日のテレビスクリーンに見入るとき問うべき問いとはたんにこうだ。これとまったく同じものを、すでに何度も何度も見たのはどこでだっただろう

    (村山敏勝訳。イタリック体にした部分は、翻訳では傍点)

    ビル破壊映画の延期を「抑圧」とジジェクは言う。では、911をテレビで見たことしか想起できない我々(アメリカ人にとっては、とくにそうだろう)は、みんながみんなというわけではないにせよ、もうスクリーンにそうしたシーンが写っても、耐え難いほどの不快感をもよおさなくなったがゆえに、あのトラウマを「克服」したと言ってよいのだろうか。もう「抑圧=否認」から解放され、〈相対的不一致〉から〈相対的一致〉の状態へと「成長」したのだろうか(心理療法家カール・ロジャーズの定義では、セラピーとは〈不一致〉にあるクライエントが〈一致〉の状態に、ある程度移行することである)。

    おそらくそうではないだろう。たとえばいまの大学生に、地下鉄サリン事件について講義すると、「日本でそんな事件があったなんて、信じられない」と反応すると池上彰が言っている。同じ事態が、911に関しても生じているにすぎない。

    映画の製作者たちは忘れてはいないだろうが(といっても非常に多くの若者がCG作成にはかかわっている)、911以降、ビルの倒壊シーンのために、「巻き上がる粉塵」というプリセットをCGのソフトウェアに搭載することで、場当たり的に「克服」しただけだろう。それは「文化を盗まれた」体験を克服しているのではなく、「あれ以下になってはならない」という消極的ハードルを「克服」しているだけである。

    これがデジャヴ以外の体験を引き起こすとは考えられない。



    このレビューで述べたかったことは、「他者の欲望を欲望する」という主体の成立の仕方が、アメリカと日本の相互交換という形で成立している、という事態がモロにこの映画で露呈しているということだ。

    オリエントと西洋の相互交換といってもよいだろう。冷戦構造崩壊後、想像力の源泉を失ってしまったアメリカ映画において、イスラム過激派は欠かせないアンチ・ヒーローに昇格したことは言うまでもない。



    渡辺謙演じる芹沢博士は、核兵器によるムート―・ゴジラ一挙掃討作戦に反対する。アメリカ兵が「一石三鳥だぜ」と口走る。

    もともと、芹沢博士がステンツ少尉にヒロシマに原爆が落ちた時刻で止まっている、父の形見の時計を見せるシーンは、もっと長いシーンが撮影されていた。芹沢が核兵器の使用をやめるよう強く説得し、ステンツ少尉は、ヒロシマに落ちた原爆を輸送したのは自分の父だということを告白するシーンだった。そこをカットしたのは正しかった。そうした冗長なシーンを削ぎ落とすことで、最後に一度倒れたゴジラが復活して海に帰ってゆく姿を、芹沢がすがすがしく見送る表情が効いてくる。

    芹沢博士は、「荒ぶる神」とゴジラを表現している。

    これはもちろん「荒御魂」のことで、神道ではスサノオに対応しているとされる。「和御魂」(にぎみたま)は天照大御神に対応する。

    「生ら生らしい」と書いて、「あらあらしい」と読むのが元になっている。

    つまり、荒御魂とは神の生命力が過剰になりすぎて、「人間にとって」災厄をもたらす状態になっていることを指す。逆に「人間にとって」平穏無事である神の状態が「和」である。「荒御魂」と「和御魂」は、(ひとつの)神の、両面の表現にすぎない。

    この映画で、結果的に正しかったのは芹沢の「日本的宗教・自然観」ということになるが、そのようなポジションが芹沢に与えられたのは、この映画が「日本映画リスペクト」であるからにすぎない。

    こうした一神教的宗教観は、明治維新以降の浄土真宗・日蓮宗・日本神道に共通している。そしてそれらは、そもそもキリスト教をモデルにしている。

    ここでもまた、オリエントと西洋、ないし日本とアメリカという、相互交換的な模倣の構図が現れているのである。



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