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中原中也と詩、入門編
(画像はUniversity of Wisconsinから)
ここ1週間ぐらい集中してやらなきゃならない仕事があって今日終わりました。
ふう。
とか一息ついてる場合じゃなくて、この間、他の案件を一時停止させて頂いていてスミマセンでした>各方面。
明日から全力でとりかかりますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。
ところで昨日は「宮沢賢治と詩、入門編」と題しながら、いきなり『春と修羅 第三集』の、ドマイナーな無題の詩、通称「何をやっても間に合はない」なんぞを取り上げましたが、この「入門」は「ぼくが入門する」という意味であって、読者にとって有益であるという意味ではないのであって、そこらへんはしかたがないことであって、『アナと雪の女王』を立川まで観に行ったら前代未聞のできごとのせいでどういうお話なのかわかんないという方もいらっしゃるぐらいなので、まあまあ。そこはかんべんして。
昨日のエントリでは、「宮沢賢治とか中原中也とか」というふうに併記したんだけど、じつは中原中也にかんしては、「この一篇が好きなんだよね」という作品がない。
全体的には好きだけど、選んでみよう、という観点で見始めると、どれもなんか違うよな~と感じてしまう。
ブルース・リー先生の言うように、Thinkの部分でなくFeelの部分にまずは忠実になってみよう。
まずランボー訳はどうか。
ぼくは個人的にははっきり言って中原訳は受け容れられません。小林秀雄訳派です。ぼくが初めてランボーの詩集を手にとったのは、高校生のときに新潮文庫から出ていた堀口大學訳ですが、当時はフランス語をまったく解さない田舎のボンクラ少年だったということもありピンときませんでした。
いや、逆か。
フランス語がわからなかったので、堀口大學に危うく騙されかけた、といったところでしょうか。1996年に宇佐美斉訳がちくま文庫から出て、これは原文に忠実な訳で、ネットのアーカイヴで原文を見ながら参考にすると、すごく捗る。辞書ひかなくていいなこれ、って感じで。
翻って、詩の翻訳なんていうあらかじめ不可能性が定められている事業になんでこの人たちは取り組んだんだろうと賛嘆以前に驚嘆してしまうのだけど、その試行錯誤の工夫の部分を楽しめるというのはある。宇佐美斉のは工夫が手に取るようにわかる。素直な訳文だから。小林秀雄のは、かっこいいんだよね。いまだったら「スタイリッシュな文学」とかいうとこれは罵倒語で、村上春樹とかに対する、とある世代(ニューアカより上)の無理目な罵倒表現において使われるんだけど。春樹より前に片岡義男がいたとか。しかしはるか前に小林秀雄がいたじゃん。っていう。
中原訳は、工夫されてはいるんだけど、「俺様訳」ですよね。「俺はランボオの詩に酔っていて、俺が依代になるから俺の声をランボオの声として聴けよ」という感じがする。
たぶんそういう翻訳のしかたがうまくいくケースというのは往々にしてあるのだろうけれど、早熟の天才ランボーの世界と、中原中也の解離性人格障害的世界(二重人格っていいたいんだけど)ってぼくの中では相容れなくって、たとえば『山羊の歌』の「春の陽の夕暮れ」とか「宿酔」とかは洗練された傑作なのに「汚れつちまった悲しみに……」の貧乏臭い泥臭さはなんなの? って感じるのですよ。その「二重人格性」が悪いということでもないし、中原中也ワールドを楽しむためにはなんの障害も生じさせないのだけど。
ランボーにこの泥臭さは必要ないでしょ、って部分で泥臭さを発揮したりする、ようにぼくには感じられる。
とここまで書いて、あらためて『山羊の歌』と『在りし日の歌』をざっと眺めたんだけど、だいたいほとんど洗練されてました。
すみません、間違いです。
やり直し。
ここから仕切りなおします。
「汚れつちまつた悲しみに……」は、タイトルが泥臭いだけですね。でもまあ、このタイトルはないだろ、って思わせるのは、「頑是ない歌」が海援隊にパクられたイメージのせいもあって、演歌っぽくも読める。
「頑是ない歌」の冒頭は「思へば遠く来たもんだ」という一行で、これが海援隊に丸パクリされたわけだけど、この詩自体は悪くないんです。
武田鉄矢が全部悪いんです。
ランボー訳の話題に戻しますと、全部泥臭く見える。
なんでですかね?
堀口大學のせいかな。
耽美と淫美は違うよね、ぐらいなのかな。
男性同性愛のアナルセックスを描くにも、ランボーの表現はリゾーム状の諸欲動機械の作動のあっけらかんとした全肯定で明るく楽しく!って感じなのに、
とここまで書いて、また間違いです。中原訳に「昔の獣らは疾駆しながらも交尾した」の訳は入ってないです(たぶん。あった気がしたのですが、いま探したら見つからなかったので、ぼくが記憶を捏造した気配が濃厚です)。
仕切り直し。
わかりやすく、例示しましょう。
まず、宇佐美斉訳の、原文に素直な、ランボー「ニーナの返答」からの一節:
身に浴びながら……
森ぜんたいが身悶えをして
恋する心に言葉を失って
この詩はとにかくひたすら男がニーナを口説いている詩です。「ニーナの返答」というタイトルですが、ニーナのセリフはたったの一行、最終行だけです。それまで何ページにもわたって、男がひたすらニーナを口説いているだけです。
さて、中原訳では「ニーナを抑制するものは」というタイトルになっていますが、これはイザンバール初蔵の自筆原稿のタイトルが「ニーナを引き止めるもの」となっている(つまり2バージョンある)ので、誤訳ではないです。
中原訳だと、上述の部分がこうなります:
酒でねえかヨ……
寒げな森が、血を出してらアな
恋しさ余つて、
なんでこうなるかなあ。Amazonレビューみても、こういう部分を評価する層というのが確立されていて、そういうのが「日本文壇」って感じがするんですが。
結論から言うと、ぼくの「中原中也は泥臭い一面もあって、その部分は嫌だ」という理解は誤解でした(「泥臭い」ことじたいは悪いことではないですが、「嫌な泥臭さ」というものもある、ということです)。
「ランボー訳の中原中也だけなぜか泥臭い」ということです。
まあ、これでぼくの「中原中也入門」の下準備が整ったわけですが。
今回言及した「春の日の夕暮れ」と「宿酔」を引用してみます。
いずれも『山羊の歌』所収。
Kindleで0円、青空文庫でも入手可です。
トタンがセンベイ食べて
春の日の夕暮は穏かです
アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮は静かです
吁(ああ)! 案山子(かかし)はないか――あるまい
馬嘶(いなな)くか――嘶きもしまい
ただただ月の光のヌメランとするまゝに
従順なのは 春の日の夕暮か
ポトホトと野の中に伽藍(がらん)は紅く
荷馬車の車輪 油を失ひ
私が歴史的現在に物を云へば
嘲る嘲る 空と山とが
瓦が一枚 はぐれました
これから春の日の夕暮は
無言ながら 前進します
自(み)[=みずか]らの 静脈管の中へです
宿酔
朝、鈍い日が照つてて
風がある。
千の天使が
バスケットボールする。
私は目をつむる、
かなしい酔ひだ。
もう不用になつたストーヴが
白つぽく銹(さ)びてゐる。
朝、鈍い日が照つてて
風がある。
千の天使が
バスケットボールする。
「汚れつちまった悲しみに……」も、ちゃんと読んでみると、タイトルに反して、このぐらい洗練されていると思います。
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- 2014-05-29
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